揚州 (古代)

揚州(ようしゅう)は、中国の歴史的なの一つ。

概要

書経』禹貢篇によると、上古の中国の九州のうち、揚州は北は淮水、南は海(南シナ海)にいたる地域とされている。

紀元前106年元封5年)、武帝が全国を13州に分割し、各州に刺史を置くと、揚州刺史部が置かれた。前漢の揚州は廬江九江会稽丹陽豫章六安の6郡国を管轄した[1]

後漢のとき、揚州は九江・丹陽・廬江・会稽・・豫章の6郡92県を管轄した[2]194年興平元年)、孫策が豫章郡を分割して廬陵郡を立てた[3]。さらに孫権208年建安13年)に丹楊郡を分割して新都郡を立て、210年(建安15年)に豫章郡を分割して鄱陽郡を立てた[4]

257年太平2年)、孫亮が豫章郡を分割して臨川郡を立て、会稽郡を分割して臨海郡を立てた。260年永安3年)、孫休が会稽郡を分割して建安郡を立てた。266年宝鼎元年)、孫晧が会稽郡を分割して東陽郡を立て、呉郡を分割して呉興郡を立てた。267年(宝鼎2年)、豫章・廬陵・長沙の3郡を分割して安成郡を立てた[5]。さらに廬陵郡を分割して廬陵南部都尉を立てた。呉の揚州は丹楊・呉・会稽・呉興・新都・東陽・臨海・建安・豫章・鄱陽・臨川・安成・廬陵南部の14郡を管轄した。江北の廬江郡と九江郡の地や合肥から北の寿春までの地は、の揚州に属した。

が呉を平定すると、安成郡を荊州に転属させ、丹楊郡を分割して宣城郡を立て、新都郡を新安郡と改称し、廬陵南部都尉を南康郡と改め、建安郡を分割して晋安郡を立て、丹楊郡を分割して毗陵郡を立てた。晋の揚州は丹楊・宣城・淮南・廬江・毗陵・呉・呉興・会稽・東陽・新安・臨海・建安・晋安・豫章・臨川・鄱陽・廬陵・南康の18郡173県を管轄した[6]

南朝宋のとき、揚州は丹陽・会稽・呉・呉興・淮南・宣城・東陽・新安・臨海・永嘉の10郡80県を管轄した[7]

南朝斉のとき、揚州は丹陽・会稽・呉・呉興・東陽・新安・臨海・永嘉の8郡を管轄した[8]

北魏のとき、揚州は淮南北譙陳留北陳辺城新蔡安豊下蔡潁川の10郡21県を管轄した[9]

589年開皇9年)、により呉州は揚州と改称された。この揚州については、揚州 (江蘇省)の記事を参照されたい。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、揚州が江都郡と改称された[10]

620年武徳3年)、杜伏威を降伏させると、丹陽郡江寧県に揚州が置かれ、江都郡は邗州と改められた。626年(武徳9年)、江寧県の揚州が廃止され、邗州が揚州と改称された。742年天宝元年)、揚州は広陵郡と改称された。758年乾元元年)、広陵郡は揚州の称にもどされた。揚州は江都江陽六合海陵高郵揚子天長の7県を管轄した[11]

北宋のとき、揚州は淮南東路に属し、江都県1県を管轄した。1135年紹興5年)以降、揚州は江都・広陵泰興の3県を管轄した[12]

1276年至元13年)、により揚州大都督府が立てられたが、江淮等処行中書省が置かれた。1278年(至元15年)、揚州路総管府と改められたが、淮東道宣慰司が置かれた。1282年(至元19年)、淮東道宣慰司は廃止され、揚州路総管府は江淮行省に直属した。1291年(至元28年)、河南江北等処行中書省に移管された。揚州路は直属の江都・泰興の2県と真州に属する揚子・六合の2県と滁州に属する清流全椒来安の3県と泰州に属する海陵如皋の2県と通州に属する静海海門の2県と崇明州、合わせて5州11県を管轄した[13]1366年朱元璋により揚州路は揚州府と改められた。

のとき、揚州府は南直隷に属し、直属の江都・儀真・泰興の3県と高郵州に属する宝応興化の2県と泰州に属する如皋県と通州に属する海門県、合わせて3州7県を管轄した[14]

のとき、揚州府は江蘇省に属し、直属の江都・儀徴甘泉東台の4県と高郵州に属する興化・宝応の2県と泰州、合わせて2州6県を管轄した[15]

1913年中華民国により揚州府は廃止された。

脚注

  1. 漢書』地理志上
  2. 後漢書』郡国志四
  3. 三国志』呉書孫破虜討逆伝
  4. 『三国志』呉書呉主伝
  5. 『三国志』呉書三嗣主伝
  6. 晋書』地理志下
  7. 宋書』州郡志一
  8. 南斉書』州郡志上
  9. 魏書』地形志二下
  10. 隋書』地理志下
  11. 旧唐書』地理志三
  12. 宋史』地理志四
  13. 元史』地理志二
  14. 明史』地理志一
  15. 清史稿』地理志五
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