建平郡
概要
260年(永安3年)、三国の呉により宜都郡が分割されて、建平郡が立てられた[1]。呉の建平郡は荊州に属し、信陵・興山・秭帰・沙渠の4県を管轄した。
いっぽう晋に建平都尉があり、巫県・北井・泰昌・建始の4県を管轄した。275年(咸寧元年)、晋の建平都尉が建平郡と改称された。280年(太康元年)、晋が呉を滅ぼすと、両国の建平郡は統合された[2]。晋の建平郡は巫・北井・泰昌・信陵・興山・建始・秭帰・沙渠の8県を管轄した[3]。
南朝宋のとき、建平郡は巫・秭帰・帰郷・北井・泰昌・沙渠・新郷の7県を管轄した[2]。
480年(南朝斉の建元2年)、荊州を分割して巴州が置かれると、建平郡は巴州に属した。斉の建平郡は巫・秭帰・北井・泰昌・沙渠・新郷の6県を管轄した[4]。
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