片平 (川崎市)
片平(かたひら)は、神奈川県川崎市麻生区の地名。1982年(昭和57年)から2006年(平成18年)にかけて住居表示が施行された町丁としての片平1丁目から8丁目[5]と、2013年(平成25年)12月9日現在で住居表示が施行されていない、大字としての片平[6]が併存している。面積は1.80 km2[2]。
片平 | |
---|---|
町丁・大字 | |
修廣寺 | |
北緯35度35分44秒 東経139度29分21秒 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 神奈川県 |
市町村 | 川崎市 |
行政区 | 麻生区 |
人口情報(2023年(令和5年)3月31日現在[1]) | |
人口 | 12,152 人 |
世帯数 | 5,738 世帯 |
面積([2]) | |
1.670445892 km² | |
人口密度 | 7274.7 人/km² |
設置日 | 1939年(昭和14年) |
郵便番号 | 215-0023[3] |
市外局番 | 044(川崎MA)[4] |
ナンバープレート | 川崎 |
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地理
麻生区の西部に位置し、全体が多摩丘陵の上にある[7]。麻生川の支流である片平川が域内を北西から南東へ流れ、それに沿って神奈川県道137号上麻生連光寺線が並走する[8]ほか、東端を神奈川県道3号世田谷町田線(津久井道)が通過している。北部や東部は小田急多摩線の整備に合わせて土地区画整理事業が行われ[8]住宅地となっている[7]が、南西部に残る丁目の付かない片平は市街化調整区域となっており、田畑や雑木林などの景観が残っている[8]。
片平は北東端で栗平・白鳥・五力田と、東端で麻生川を挟んで上麻生と、南西端で東京都町田市の能ヶ谷・広袴町と、西端で栗木と接する(特記のない町域は神奈川県川崎市麻生区)。
歴史
古代
当地からは葉積台遺跡・片平遺跡・仲町遺跡など、縄文時代の早期・前期・中期・後期に渡る遺跡が発掘されている[7]。特に、仲町遺跡からは柄鏡形敷石住居が検出されており、建築に石を用いた例として初期に当たる[10]。
また、南西に「富士塚」と呼ばれる古墳があり、その名の通りかつては富士山が見渡せたといい[8]、近世には富士信仰の場ともなっていた[7]。
中世
当地に所在する修廣寺は、末寺を8箇所有する大寺院であったが、その創建は永享年間(15世紀前半)と伝わる[11]。
片平は『小田原衆所領役帳』に「小机片平郷」として載っている[7]が、この時点では古沢や五力田も片平郷の一部とされており、江戸時代へ移る前に分立していった[12]。なお、豊臣秀吉が小田原征伐に先立って、当地など9か村に禁制を出しており、その実物も現存している[13]。
江戸時代
江戸時代の当地は当初旗本の前場氏領であったが、後に天領となり、また一部には修廣寺領もあった[14]。片平川とそこから伸びる谷戸に水田が作られ、台地上は畑地となっていた[7]。
村高は、正保期の『武蔵田園簿』で268石(別途志光寺領が3石4斗)、『元禄郷帳』で300石1斗あまり、『天保郷帳』で295石9斗あまり、幕末の『旧高旧領取調帳』で天領分が292石7斗あまり、修廣寺領が3石9斗あまりとなっていた[14]。年貢以外の賦役として、1768年(明和5年)以降、布田五宿(甲州街道)の助郷を務めた[14]。
明治以降
明治維新以降、当地は神奈川県に属し、行政上片平村→柿生村→川崎市と推移していった。明治に入って養蚕が盛んとなり、また禅寺丸柿も広く作られるなど[14]、当地は農村として推移していった。養蚕は大正時代に全盛期を迎えるが、昭和恐慌の影響で、都市近郊にあることを生かした野菜やシイタケ栽培へと主力が移っていった[6]。
当地では第二次世界大戦中から住宅地化の動きが見られたが、戦後にはそれが加速していった[15]。そのような流れの中で、市は当地を市街化調整区域に指定して乱開発を抑える一方、小田急多摩線の建設に合わせて土地区画整理事業が行われ、完了した区域は市街化区域に編入した[16][17]。平成に入ってからも、尻手黒川道路と片平川の整備に合わせて土地区画整理事業が行われている[18]。
地名の由来
当地は片平川を境として、北東側が崖であるのに対し、南西側が緩やかな台地であることから、「片側が平ら」という地形から付いた地名だと考えられている[7]。
沿革
- 縄文時代 - 遺跡が残る。
- 古墳時代 - 富士塚が築かれる。
- 永享年間 - 修廣寺の建立と伝わる。
- 1559年(永禄2年)- 『小田原衆所領役帳』に「小机片平郷」とある。
- 1716年(享保元年)- 前場氏領が天領となる[14]。
- 1768年(明和5年)- 布田五宿の助郷を務める。
- 1868年(明治元年)- 明治維新。当地は神奈川県所属となる。
- 1874年(明治7年)- 大区小区制の施行により、当地は第6大区第8小区に属する[14]。
- 1889年(明治22年)- 町村制施行により、柿生村が成立。片平はその大字となる。
- 1911年(明治44年)- 村内の神社が白鳥神社へ合祀される[14]。
- 1918年(大正7年)- 養蚕組合が組織される[6]。
- 1939年(昭和14年)- 柿生村が川崎市へ編入される。川崎市片平となる。
- 1959年(昭和34年)- 川崎市立柿生小学校が上麻生から当地へ移転[6]。
- 1970年(昭和45年)- 川崎都市計画区域の線引きが行われ、当地は市街化調整区域とされる。
- 1972年(昭和47年)- 川崎市が政令指定都市へ移行。川崎市多摩区片平となる。小田急多摩線の建設や沿線の土地区画整理事業が始まる。
- 1974年(昭和49年)- 小田急多摩線が小田急永山駅まで開通。
- 1976年(昭和51年)- 土地区画整理の完了により住居表示が行われ、栗平・白鳥が分立[15]。
- 1978年(昭和53年)- 神奈川県立柿生西高等学校が開校[6]。
- 1982年(昭和57年)- 多摩区から麻生区が分立。当地は麻生区に属する。同時に住居表示が行われ、一部が片平1丁目~5丁目、五力田1丁目~3丁目となる[6]。
- 2004年(平成16年)- 神奈川県立柿生西高等学校と神奈川県立柿生高等学校が統合再編され、神奈川県立麻生総合高等学校として開校[19]。
- 2006年(平成18年)- 一部で住居表示が行われ、片平6丁目~8丁目が成立。
世帯数と人口
2023年(令和5年)3月31日現在(川崎市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
大字・丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
片平 | 311世帯 | 610人 |
片平1丁目 | 833世帯 | 1,748人 |
片平2丁目 | 977世帯 | 1,851人 |
片平3丁目 | 929世帯 | 1,750人 |
片平4丁目 | 1,226世帯 | 2,784人 |
片平5丁目 | 849世帯 | 1,907人 |
片平6丁目 | 252世帯 | 630人 |
片平7丁目 | 247世帯 | 582人 |
片平8丁目 | 114世帯 | 290人 |
計 | 5,738世帯 | 12,152人 |
学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2021年12月時点)[26][27]。
大字・丁目 | 番・番地等 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
片平 | 全域 | 川崎市立片平小学校 | 川崎市立白鳥中学校 |
片平1丁目 | 1~3番 5~20番 | ||
4番 | 川崎市立柿生小学校 | ||
片平2丁目 | 全域 | ||
片平3丁目 | 全域 | ||
片平4丁目 | 全域 | ||
片平5丁目 | 全域 | 川崎市立片平小学校 | |
片平6丁目 | 全域 | ||
片平7丁目 | 全域 | ||
片平8丁目 | 全域 |
事業所
2016年(平成28年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[28]。
大字・丁目 | 事業所数 | 従業員数 |
---|---|---|
片平 | 25事業所 | 673人 |
片平1丁目 | 30事業所 | 225人 |
片平2丁目 | 38事業所 | 211人 |
片平3丁目 | 18事業所 | 80人 |
片平4丁目 | 25事業所 | 110人 |
片平5丁目 | 17事業所 | 61人 |
片平6丁目 | 9事業所 | 42人 |
片平7丁目 | 8事業所 | 105人 |
片平8丁目 | 5事業所 | 131人 |
計 | 175事業所 | 1,638人 |
交通
路線バス
小田急バス(新百合ヶ丘営業所管轄)が、柿生駅と若葉台駅を結ぶバスを、神奈川県道137号上麻生連光寺線に沿って運行している。この他にも、神奈川中央交通が同県道や神奈川県道3号世田谷町田線に沿った路線を運行しているが、本数は極めて少ない。
道路
域内を東西に神奈川県道137号上麻生連光寺線が通過するほか、都市計画道路として尻手黒川道路の計画があり、一部では県道137号と重複する。また、東端を南北に神奈川県道3号世田谷町田線(津久井道)が通過している。
その他
関連項目
- 片平(曖昧さ回避)
脚注
- “令和5年町丁別世帯数・人口 3月末日現在” (XLS). 川崎市 (2023年4月25日). 2023年6月25日閲覧。 “(ファイル元のページ)”(CC-BY-2.1)
- “町丁別面積(総務省統計局「地図で見る統計(統計GIS)の数値」令和2年国勢調査)” (XLS). 川崎市 (2022年7月25日). 2022年7月31日閲覧。 “町丁別面積(総務省統計局「地図で見る統計(統計GIS)」の数値)”
- “片平の郵便番号”. 日本郵便. 2021年8月11日閲覧。
- “市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。
- 区別町名一覧表(麻生区) 川崎市、2013年12月9日現在(2014年2月19日閲覧)。
- 「角川日本地名大辞典 14 神奈川県」、P.247。
- 『川崎地名辞典(下)』、p.195。
- 『川崎市の町名』、p.272。
- “国土交通省地価公示・都道府県地価調査”. 国土交通省. 2023年6月4日閲覧。
- “仲町遺跡”. 川崎市教育委員会. 2014年2月19日閲覧。
- 『川崎地名辞典(下)』、pp.199-200。
- 『川崎市の町名』、p.271。
- “豊臣秀吉の禁制”. 川崎市教育委員会. 2012年6月18日閲覧。
- 『川崎地名辞典(下)』、p.196。
- 『川崎地名辞典(下)』、p.197。
- “第4部 分野別の基本方針 I 土地利用” (PDF). 川崎市都市計画マスタープラン 麻生区構想. 川崎市まちづくり局. p. 43 (2019年7月31日). 2022年7月30日閲覧。
- “第4部 分野別の基本方針 II 土地利用 その3”. p. 43 (2007年10月1日). 2015年9月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧。
- “完了地区概要”. 川崎市まちづくり局 (2018年8月2日). 2022年7月30日閲覧。
- “沿革”. 神奈川県立麻生総合高等学校. 2014年2月19日閲覧。
- “平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年3月28日). 2019年8月16日閲覧。
- “平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年5月30日). 2019年8月16日閲覧。
- “平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年6月27日). 2019年8月16日閲覧。
- “平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2012年1月20日). 2019年8月16日閲覧。
- “平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2017年1月27日). 2019年8月16日閲覧。
- “令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) -男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等”. 総務省統計局 (2022年2月10日). 2022年2月20日閲覧。
- “麻生区の小学校(町丁名順)”. 川崎市 (2017年11月20日). 2021年12月12日閲覧。
- “麻生区の中学校(町丁名順)”. 川崎市 (2017年11月20日). 2021年12月12日閲覧。
- “平成28年経済センサス-活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 都道府県別結果”. 総務省統計局 (2018年6月28日). 2019年10月23日閲覧。
- “郵便番号簿 2020年度版” (PDF). 日本郵便. 2021年8月7日閲覧。
- “交番・駐在所の所在地”. 麻生警察署. 2021年12月12日閲覧。