法輪寺 (阿波市)
法輪寺(ほうりんじ)は、徳島県阿波市土成町土成にある高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所霊場の第九番札所。正覚山(しょうかくざん)菩提院(ぼだいいん)と号する。本尊は涅槃釈迦如来。
法輪寺 | |
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本堂(左)と大師堂 | |
所在地 | 徳島県阿波市土成町土成字田中198-2 |
位置 | 北緯34度6分15.76秒 東経134度20分1.73秒 |
山号 | 正覚山 |
宗派 | 高野山真言宗 |
本尊 | 釈迦如来(涅槃像) |
創建年 | 伝・弘仁6年(815年) |
開基 | 伝・空海(弘法大師) |
中興年 | 正保年間(1644年 - 1648年) |
正式名 | 正覚山 菩提院 法輪寺 |
札所等 | 四国八十八箇所9番 |
法人番号 | 6480005003102 |
法輪寺 徳島市 徳島県における位置 |
本尊真言:のうまくさんまんだ ぼだなん ばく
ご詠歌:大乗(だいじょう)のひほうもとがもひるがえし 転法輪(てんぽうりん)の縁(えん)とこそきけ
歴史
巡錫中の空海(弘法大師)が白蛇を見、白蛇が仏の使いといわれていることから釈迦涅槃像を刻んで本尊として開基したと伝えられている。当初は現在地より4キロメートル北方の法地ヶ渓にあり白蛇山法林寺もしくは法淋寺[1][2]と号した。
天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火により焼失。正保年間(1644年 - 1648年)に現在地に移転して再興され、田園の中にあるため「田中法輪寺」[3]と呼ばれ、当時の住職が「転法林で覚りをひらいた」ことから、現在の山号と寺号に改められた。その後安政6年(1859年)に失火にて鐘楼堂を残して全焼、明治になって現在の堂宇が再建された。
昔、松葉杖で参拝に来た人が杖がなくても歩けるようになったことから、本堂におびただしい数の草鞋が奉納されている。
境内
- 山門(仁王門)- 入母屋造楼門
- 本堂 - 本尊は入滅時の涅槃釈迦如来を取囲む十数体の羅漢達を仏像化したもので、2014年に1年間にわたって開帳された。なお、向って右脇陣には薬師如来坐像が左脇陣には釈迦如来坐像その左に弁財天が祀られている。本尊の開帳は5年に一度で2020年2月15日が最後。
- 大師堂 - 2014年より開帳中。
- 青不動明王 - 本堂右前に鎮座している。矜羯羅・制多迦童子を従えた半跏趺坐像で修繕から帰ってきた。
- 鐘楼
山門を入ると左側に手水場がある。最も奥に本堂が建ち、本堂の右に大師堂が並ぶ。本堂に向かって左側に参拝者休憩所、納経所等が建てられている。その休憩所の左手に鐘楼がある。
- 宿坊:なし
- 駐車場:50台、バス10台。無料。
- 仁王門
- 本堂
- 大師堂
寺宝
- 弘法大師御おころも衣:高野山奥の院御廟で入定されている弘法大師の御衣替えされた衣を明治15年(1882年)に賜る。
周辺の番外霊場
小豆洗大師堂(あずきあらいだいしどう)
- 空海が水不足に苦しむ農民を哀れみ、小豆を洗った水を加持して清水を湧出させたと云われる霊跡である。別の逸話として、寒い冬の夜、当地で野宿しようとした空海が小豆粥を炊こうとしたが水が無く楠の根元を杖で突き清水を湧出させた。その泉が傍らにあり、周辺の家ではその日にあたる12月24日夜には小豆粥を炊くという風習が残っていたと云われている。
- 住所:徳島県阿波市土成町水田(9番と10番との間の遍路道脇にある)
脚注
- 四国霊場大観刊行会 編『四国霊場大観』弘法教会本部、1936年、50頁。NDLJP:1145432/68。
- 四国新聞社 編『お四国 : 霊場八十八カ所の旅』四国新聞社、1973年、37頁。NDLJP:9573054/21。
- 『四国遍礼名所図会』1800年。による
参考文献
- 四国八十八ヶ所霊場会 編『先達教典』四国八十八ヶ所霊場会、2006年。
- 宮崎建樹『四国遍路ひとり歩き同行二人』 地図編(第8版)、へんろみち保存協力会、2007年。
- 宮崎建樹『四国遍路ひとり歩き同行二人』 解説編(第7版)、へんろみち保存協力会、2007年。
外部リンク
- 第9番札所 正覚山 菩提院 法輪寺(四国八十八ヶ所霊場公式)
- 法輪寺|アクセス・天気(四国八十八ヶ所|お遍路一覧ナビ)
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