柴田翔
柴田 翔(しばた しょう、男性、1935年1月19日 - )は、日本の小説家、ドイツ文学者、東京大学名誉教授。
東京生まれ。私立武蔵高校卒業。東京大学大学院独文科を経て同大教授。1964年に当時の学生群像を描いた「されどわれらが日々―」で芥川賞を受賞した[1]。左翼運動に挫折した学生たちの姿を清新な叙情で描き、当時の若者の共感を得た。作品に『贈る言葉』(1966年)、『鳥の影』(1971年)、『ノンちゃんの冒険』(1975年)など。
経歴
東京府東京市足立区栗原町生まれ[1]。幼少期に東京都板橋区常盤台に転居して育つ[1]。板橋区立上板橋第一中学校に入学した後、武蔵中学校・高等学校へ転校[1]。1953年、東京大学教養学部理科一類に入学[1]。工学部応用化学科から文転して文学部独文科を卒業[1]。1959年、同人雑誌『象』を創刊[1]。1960年、同大学院独文科修士課程修了、助手となる[1]。同年、同人誌『象』に発表した小説「ロクタル管の話」が「同人雑誌優秀作」として『文學界』に転載され、芥川賞候補となる[1]。1961年「『親和力』研究―西欧近代の人間像の追求とその崩壊の認識―」で日本ゲーテ協会ゲーテ賞を受賞[1]。翌年、助手を休職して西ドイツへ留学する[1]。
1964年『象』に発表した「されど われらが日々―」で第51回芥川賞を受賞[1][2]。六全協に影響された学生群像を描いた青春小説で[2]、累計186万部というベストセラーとなり[1]、『「されどわれらが日々」より別れの詩』として映画化された。以後も『贈る言葉』(1966年)、『鳥の影』(1971年)、『立ち盡す明日』(1971年)などを発表した[1]。
1966年に東京都立大学 (1949-2011)講師[1]、1967年に助教授[1]。1969年東京大学文学部助教授、のち教授、文学部長を務めた[1]。1995年、東大を定年退官し名誉教授[1]。1995年から2005年まで共立女子大学文芸学部教授を務め[3]、2006年定年退任[1]。1981年前後に文學界新人賞選考委員、1999 - 2007年太宰治賞選考委員を務めた。
1970年から72年まで小田実、高橋和巳、真継伸彦、開高健とともに同人誌『人間として』を筑摩書房から刊行。「ノンちゃんの冒険」を連載するが、高橋がほどなく没し雑誌は休刊になり、同作品は1975年に残りを書き下ろして刊行された。以後は研究者・翻訳者としての本業に専念し、小説を書かなくなる。2017年、30年ぶりに長編小説『地蔵千年、花百年』を書いて話題となる[1]。
ドイツ文学者としては、『ゲーテ「ファウスト」を読む』や『内面世界に映る歴史』、ゲーテ『ファウスト』『親和力』『若きヴェルテルの悩み』などの翻訳がある[1]。
「されどわれらが日々」は学生運動を題材にした小説であるが、後の全共闘運動に対しては、次のように評している。
ゲバルトが出始めた時には、その意味が十分判っていなかったという気がする。僕がそのとき考えたことは、ゲバルトは国家の暴力装置に対抗するための対抗暴力として出てきたと理解した。僕はたとえ対抗暴力であってもゲバルトには反対だったけど、現象としてはそう理解していた。ところが大学の教師である自分の目の前で学生たちがゲバ棒を振りまわしているのを見ているうちに、そういう側面もあるけれどもそれはいってみればタテマエと判ってきた。そうではなくて、連中はゲバ棒を持ちたいから持っているんだ、ゲバ棒を振り廻すこと自体によろこびを感じているんだという気がした。これは良い悪いの問題以前に、まさに現実としてそうだということが見えてきた。ところが戦後日本近代、戦後民主主義が前提にしていた人間観の中には、それが含まれていなかった。人間は本来理性的動物であって、暴力衝動などは、その人間観の外へ追いやられていた。 — 「全共闘―それは何だったのか」現代の理論社:1984年刊:148頁)
著作
小説
エッセイ
翻訳
脚注
- “芥川賞作家・柴田翔の歩み —30年ぶりに新作長編『地蔵千年、花百年』を発表”. www.choeisha.com. 2021年12月5日閲覧。
- “集団主義に巻き込まれる弱さ 柴田翔「されど われらが日々――」|好書好日”. 好書好日. 2021年12月5日閲覧。
- “筑摩書房 詩に誘われて / 柴田 翔 著”. www.chikumashobo.co.jp. 2021年12月5日閲覧。
- “文化の仲間”. 京浜協同劇団と共に歩む文化の仲間. 2021年12月閲覧。
外部リンク
- 集団主義に巻き込まれる弱さ 柴田翔「されど われらが日々―」 - 好書好日(朝日新聞社)