張鍾勲

張 鍾勲(チャン・ジョンフン、ハングル장종훈1968年4月10日 - )は、大韓民国忠清北道永同郡出身の元プロ野球選手。ピングレ・イーグルス、ハンファ・イーグルスに在籍していた(遊撃手一塁手指名打者)。

張鍾勲(チャン・ジョンフン)
Chang Jong-Hoon
ハンファ・イーグルス時代
基本情報
国籍 大韓民国の旗 大韓民国
出身地 忠清北道永同郡
生年月日 (1968-04-10) 1968年4月10日(55歳)
身長
体重
185 cm
83 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手一塁手指名打者
プロ入り 1986年 ドラフト外でビングレ・イーグルスに入団
初出場 1987年
最終出場 2005年9月15日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

経歴

1986年、世光高校からテスト生として入団。
当時の韓国プロ野球は、高校時代からスター選手として頭角を現して、大学・社会人時代にアマチュアの国家代表としての経歴を積んでプロ入りした者でなければ一軍の枠入りすらままならなかった。高校時代から全くの無名だったので大学にも進学できず、プロからの掛け声もなかったが高校卒業の時、年俸360万ウォン(当時のレートで約50万円)のテスト生としてビングレに入団した。

今の日本プロ野球で言えば、育成選手と同じ扱いだったがそこで持ち前のパンチ力を見つけられ、1年目から一軍に昇格して打率2割7分、8本塁打を記録する。翌年2桁の12本、1988年は18本の本塁打を記録してチームの韓国シリーズ進出に貢献した。二遊間コンビといえば、小柄で器用な選手がほとんどだった当時、長打力を備えたショートとして注目を集める。

しかし守備では動きが硬く、打球処理に不安を持って失策が多かった。1989年のヘテ・タイガースとの韓国シリーズでは初戦をものにしたものの、第2戦で1回に4点を先制して迎えた2回の守備で張のエラーがきっかけで試合をひっくり返され、そのままシリーズの流れをヘテによこしてしまったのは張の守備力に対する印象を決定付けるものだった。

1990年は28本で最多本塁打のタイトルを獲得、期待された巨砲としての素質を開花。しかし、シーズン終盤は故障で出場できなかった。張もこの故障をきっかけにポジションを負担の多いショートから打撃の専念できる一塁手および指名打者に転換。翌年の1991年は35本塁打、114打点でともにシーズン韓国記録を樹立。韓国プロ野球でシーズン100打点を記録した最初の選手だった。張もこの成績を認められ、この年最優秀選手に選ばれた。日本・岐阜県長良川球場で行われた日韓スーパーゲームの第5戦でも場外ホームランを放った。これは、長良川球場が出来て初めてのことであった。

1992年にはさらに記録を伸ばし、韓国初のシーズン40本塁打と119打点で自分の持っていた記録を更新。2年連続最優秀選手に輝いた。

しかし1993年のシーズン序盤、走塁途中で野手とぶつかり手首を骨折し97試合出場に止まると、翌年も故障で76試合しか出場できず成績はさらに悪化した。1995年は22ホームランで復活したが、それ以降は成績が浮沈を繰り返し隔年選手のような働きぶりだった。
それでも、コンスタントに本塁打を記録して2002年まで15年連続二ケタ本塁打の記録を樹立する。これは2021年に崔廷が更新するまで、梁埈赫と並ぶ韓国記録だった。1999年はダン・ローマイヤー、ジェイ・デイビスとともにクリーンナップを形成して、主砲としてチーム初の韓国シリーズ優勝に貢献する。最終戦となる第5戦では、犠牲フライで決勝点をあげた。

2005年まで19年に掛けてチームの中心として後輩たちを率いながら通算340本の本塁打を記録したが、これは梁埈赫が2009年5月に通算341本の新記録を更新するまでは韓国プロ野球通算最多記録であった(2020年シーズン終了時点ではハンファの球団記録)。実働19年も引退当時までは韓国最長記録だった。(2014年シーズン終了時点で朴勍完の実働23年が最長記録である。)

2005年シーズン限りで現役を引退した。大学、社会人、プロのどこからも呼んでくれなかったテスト生から始まってアマチュア時代からエリートの道を歩んできた他の選手を抜き、通算打撃記録に関する数々の韓国プロ野球記録を残したため、韓国では張の選手時代を「練習生神話」と呼ぶ。19年に渡る選手生活で残した数多くの功績を称えるため、チームは2005年9月15日に行われた張の引退試合を無料でファンに開放した。満員のファンが押し寄せて、張の最後の花道を惜しみながら祝ってくれた。そして張の背番号35はチーム史上初の永久欠番となった。

引退後、2軍打撃コーチとしてチームに残り、若手の育成に力を注いだ。2008年から1軍打撃コーチに昇格。金泰均(キム・テギュン)、(イ・ボムホ、2011年より起亜)など、自身が引退した後のチームを支えた主砲たちを指導した。

2012年福岡ソフトバンクホークスの2軍・3軍の打撃コーチとなり、日本で研修を受けた。
2013年よりハンファの1軍打撃コーチに復帰。
2015年よりロッテ・ジャイアンツのコーチとなる。
2017年10月、ハンファに打撃コーチとして復帰することが発表された。2020年シーズン終了後、ハンファのコーチを退任した。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1987 ピングレ 943312812476150811534161103009624.270.359.409.769
1988 10840634453832041214757313643010951.241.338.427.765
1989 1123012564965110181304664233307553.254.351.508.859
1990 120496411731191532822491870569511843.290.401.545.946
1991 12655846410416024435297114211103768158812.345.450.6401.090
1992 12555643110612928241284119135061061513995.299.446.6591.105
1993 97412339581002101717258122065879684.295.405.507.913
1994 ハンファ 792832433365113101123451113652601.267.365.461.826
1995 1264984207713725422236788904681666310.326.424.562.986
1996 9034028950771801514057840337611632.266.368.484.852
1997 121499427741252712222076158056384769.293.385.515.900
1998 118489437601201711719066350441576913.275.344.435.778
1999 126531465801323122724886440454089311.284.365.533.899
2000 12751244766118190282218113025251111415.264.354.494.848
2001 120421366551001601516154114244544877.273.356.440.796
2002 1013313023875150121264222122412881.248.306.417.723
2003 832342062150816782413412112565.243.317.379.696
2004 7016515321391006672701201000314.255.301.438.739
2005 711111100141000000030.091.091.364.455
KBO:19年 195073746292104317713312534031721145122802659886861311354110.281.377.504.881
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号

  • 52 (1986年)
  • 35 (1987年 - 2005年、2018年 - 2020年)
  • 82 (2006年)
  • 85 (2007年 - 2011年、2013年 - 2014年)
  • 73 (2015年 - 2017年)

獲得タイトル・受賞経歴

  • MVP-2回(1991、1992)
  • 最高出塁率-1回(1995)
  • 最多本塁打-3回(1990、1991、1992)
  • 最多打点-3回(1990、1991、1992)
  • ゴールデングラブ賞-5回
    遊撃手(1988、1990)、指名打者(1991)、一塁手(1992、1995)
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