ヴィンセンス (軽巡洋艦)

ヴィンセンス (USS Vincennes, CL-64) は、アメリカ海軍軽巡洋艦クリーブランド級軽巡洋艦の1隻。艦名はインディアナ州ヴィンセンスに因む。その名を持つ艦としては3隻目。

USS Vincennes (CL-64)
艦歴
起工: 1942年3月7日
進水: 1943年7月17日
就役: 1944年1月21日
退役: 1946年9月10日
その後: 標的艦として海没処分
除籍: 1966年4月1日
性能諸元
排水量: 10,000 トン
全長: 610 ft 1 in
全幅: 66 ft 6 in
吃水: 20 ft
最大速: 33 ノット
乗員: 士官、兵員992名
兵装: 6インチ砲12門、5インチ砲12門
40mm機銃24基、20mm機銃22基

艦歴

ヴィンセンスは1942年3月7日にマサチューセッツ州クインシーベスレヘム造船で、フリント (USS Flint, CL-64) として起工した。艦の建造中の1942年8月に第一次ソロモン海戦重巡洋艦ヴィンセンス (USS Vincennes, CA-44) が戦没する。その名を維持するため、フリントは1942年10月16日にヴィンセンスと改名された。1943年7月17日にアーサー・A・オズボーン夫人(元ハリエット・V・キンメル、重巡洋艦ヴィンセンスの命名者)によって命名、進水し、1944年1月21日に艦長アーサー・D・ブラウン大佐の指揮下就役した。

就役後、ベスレヘム造船での艤装は2月末に完了し、まもなく海上公試が行われた。2月25日から3月末日までヴィンセンスは英領西インド諸島への巡航および整調巡航を行う。チェサピーク湾地域での短期間の停泊後、ヴィンセンスはトリニダード近海、主としてパリア湾で活動した。

整調後の修理および変更が行われた後、ヴィンセンスは第14巡洋艦隊の司令官、ワイルダー・D・ベーカー少将の旗艦となる。ベーカー少将はスタッフと共に4月14日に乗艦した。艦隊にはマイアミ (USS Miami, CL-89) とヒューストン (USS Houston, CL-81) も含まれた。ヒューストンはヴィンセンスと同様、戦没した同名艦の名を受け継いだ艦であった。

4月16日にボストンを出航し、パナマ運河を通過した後5月6日に真珠湾に到着した。翌週はハワイ海域で猛訓練を行う。訓練期間にチェスター・ニミッツ提督がヴィンセンスを訪問し、アリューシャン列島での砲撃作戦の功績によりヴィンセンスの将官達に海軍十字章を授章した。

整調および訓練期間の後、ヴィンセンスは5月24日に真珠湾を出航した。途中訓練を行った後、6日後にマジュロ環礁に到着する。その1週間後、マジュロを出航したヴィンセンスは第58任務部隊に合流する。高速空母を中心として形成されたこの強力な艦隊の指揮官はマーク・ミッチャー中将であった。


戦後

ヴィンセンスは6月16日に最後の一斉射撃を行い、その後オーバーホールのため帰国の途に就く。真珠湾を経由し、7月8日にメア・アイランド海軍工廠に到着、有効性試験が完了する8月末まで留まった。

オーバーホールの間の8月15日に日本は降伏し、太平洋戦争は終了した。ヴィンセンスはオーバーホール後の公試が終わると、8月29日にサンディエゴに移動し整調を行い、サン・クレメンテ島沖で回復訓練に入る。

その後、ヴィンセンスはマジック・カーペット作戦に加わり、水兵および海兵隊員を乗せて真珠湾と西海岸を往復した。「魔法のじゅうたん」任務は秋まで続けられ、続いてニューカレドニアヌーメアで南太平洋軍司令官ポール・ヘンドレン少将の旗艦となる。10月25日にヴィンセンスはヘンドレン少将を乗せ、ガダルカナル島ラッセル諸島ツラギ島エスピリトゥサント島エファテ島を視察、11月5日にヌーメアに帰還した。この巡航期間にヴィンセンスはその名の由来となった同名艦が沈む地点を通過した。

ヴィンセンスは続いてニュージーランド海域へ2度の巡航を行い、その後300名の帰還兵を乗せて帰路に就いた。1946年3月23日にサンフランシスコで帰還兵を降ろし、ヴィンセンスは不活性化のためメア・アイランドへ向かった。

ヴィンセンスは1946年9月10日に退役した。1966年4月1日に除籍され、その後ミサイル実験の標的艦として海没処分された。

ヴィンセンスは第二次世界大戦の戦功で6個の従軍星章を受章した。

関連項目


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