マイク・イースラー

マイケル・アンソニー・イースラーMichael Anthony Easler, 1950年11月29日 - )は、アメリカ合衆国オハイオ州クリーブランド出身の元プロ野球選手外野手)・コーチ

マイク・イースラー
Mike Easler
フィラデルフィア・フィリーズ時代
(1987年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 オハイオ州クリーブランド
生年月日 (1950-11-29) 1950年11月29日(72歳)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
195 lb =約88.5 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手一塁手
プロ入り 1969年 MLBドラフト14巡目(全体314位)でヒューストン・アストロズから指名
初出場 MLB / 1973年9月5日
NPB / 1988年5月19日
最終出場 MLB / 1987年10月4日
NPB / 1989年8月31日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

同じくプロ野球選手のクリフ・ジョンソンは義兄弟にあたる[1]

経歴

1969年MLBドラフト14巡目(全体314位)でヒューストン・アストロズに入団し、1973年9月5日レッズ戦(アストロ)で、延長11回裏にスキップ・ジャッツの代打でメジャーデビューを果たすが、結果はピッチャーゴロに終わり、この試合の最後の打者となった。ピッツバーグ・パイレーツ時代の1980年にレギュラーに定着し、6月12日のレッズ戦(リバーフロント)でサイクル安打を記録。1981年にはMLBオールスターゲームに出場。6回裏の守備から出場し、2打数1安打1四球1得点を記録。メジャーでは実働14年で6球団を渡り歩き、学生時代から「ザ・ヒットマン」の異名でも知られていた。

1988年シーズン途中、トニー・ブリューワブライアン・デイエットがことごとく怪我で戦線離脱し外国人助っ人選手が不足していたNPB日本ハムファイターズに入団。NPBデビュー戦となった5月19日ロッテ戦(川崎)で1回表に小川博から初打席本塁打を記録し、同年は3番・田中幸雄、5番・大島康徳クリーンナップを組み、結局デビュー戦から最終戦まで全て4番・指名打者でスタメン出場を果たした。シーズン最終戦の最終打席で規定打席に到達し、いずれもチームトップの打率.304、19本塁打を残し、当時貧弱であったファイターズ打線の中で気を吐き前年に続くAクラス入りに大きく貢献。極端なアッパースイングでフォロースルーでバットをすくい上げる独特のフォームが話題となり[2]1989年も開幕から主軸を打っていたが、当時38歳の高齢と相次ぐ怪我に泣かされ出場機会も減り、最後は肋骨亀裂骨折で戦線離脱したまま現役を引退[2]

引退後はA+マイアミ・ミラクル監督(1990年)、ミルウォーキー・ブルワーズ1992年)→ボストン・レッドソックス1993年 - 1994年)打撃コーチ、セントルイス・カージナルス打撃コーチ(2000年 - 2001年)を務めた。カージナルス退団後はフロンティアリーグフローレンス・フリーダム監督(2004年)、ドジャース傘下2Aジャクソンビル・サンズ2006年)→3Aラスベガス・フィフティワンズ2007年)→ドジャース(2008年)打撃コーチを務めた。2008年1月22日に打撃コーチとして発表されたドン・マッティングリーが個人的な理由で就かないことを選択したため、ジョー・トーリ監督が新しい打撃コーチとしてイースラーを指名。開幕後は7月9日に解任され、マッティングリーが後任に戻ると発表された。イースラーは残りのシーズンをマイナーリーグの打撃インストラクターとして働いた。2011年メッツ傘下のAAA級バッファロー・バイソンズ打撃コーチを務めた。

イースラーの退団と入れ替わりに日本ハムでプレーしたマット・ウインタースによれば、外国人選手では珍しく納豆が食べられたという(ただし2人の在籍期間が被っていないため、ウインタースがどこで情報を得たかは不明)。

テレビ番組・『とんねるずのみなさんのおかげでした』内の博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜では、野球モノマネとして杉浦双亮360°モンキーズ)が「〇〇するイースラー」のネタで度々登場してその独特な打撃フォームを披露していたが後半は実際には確認できていないような状況まで再現することが恒例となっていた。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1973 HOU 6971000000000021040.000.222.000.222
1974 1515150100010000000051.067.067.067.133
1975 5550000000000000010.000.000.000.000
1976 CAL 2159546131101641112210111.241.259.296.555
1977 PIT 10191838201135000100010.444.421.7221.143
1979 55625481511224110100800130.278.371.444.815
1980 13244539366133273212297459094360657.338.396.583.978
1981 953693394397185714642470624704510.286.328.431.759
1982 1425264755213127215207581114401268511.276.337.436.773
1983 115408381441171721016854421122136410.307.349.441.790
1984 BOS 156666601871883152731091111258441348.313.376.516.892
1985 1556315687114929416234740107531312915.262.325.412.737
1986 NYY 1465464906414826214220783225491308717.302.362.449.811
1987 PHI 3311711073140138100101600201.282.316.345.662
NYY 651841671347604652110021401324.281.337.389.726
'87計 98301277207810051033111032001525.282.329.372.701
1988 日本ハム 97403355471082011918758100344716910.304.380.527.906
1989 4518616219481007793230002321394.296.387.488.875
MLB:14年 11514061367746510781892511816715222026640321461769685.293.349.454.804
NPB:2年 1425895176615630126266904003679210814.302.382.515.897

年度別守備成績



一塁(1B)左翼(LF)右翼(RF)




































1973 HOU -10010.000110001.000
1977 PIT -120001.000350001.000
1979 -20000----20000----
1980 -91135621.9864261110.984
1981 -731511232.9822434110.972
1982 -137246872.97330000----
1983 -105156661.964-
1984 BOS 2925629721.976--
1985 -1830030.909230001.000
1986 NYY -817010.944360001.000
1987 PHI -3051412.982-
NYY -14231001.000110001.000
'87計 -4474512.988110001.000
MLB 2925629721.97648081137248.97281111220.983
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

MLB
NPB

背番号

  • 22 (1973年 - 1975年、1992年)
  • 10 (1976年)
  • 24 (1977年、1979年 - 1983年)
  • 7 (1984年 - 1985年)
  • 17 (1986年 - 1987年)
  • 6 (1988年 - 1989年)
  • 45 (1993年 - 1994年)
  • 4 (2000年)
  • 19 (2001年)
  • 41 (2008年)

脚注

  1. 出野哲也『改訂新版 メジャー・リーグ人名事典』言視社、2013年、30-31頁頁。ISBN 978-4-905369-67-7。
  2. プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、47ページ

関連項目

外部リンク

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