フランク・ワイコフ

経歴

ワイコフは、1928年アムステルダム大会では100mに出場。3位に10分の1秒及ばず4位に終わったが、ワイコフとジェームズ・クインチャールズ・ボラーヘンリー・ラッセルのメンバーで出場した4×100mリレーでは41.0秒の世界新記録で金メダルを獲得した。

オリンピック後、ワイコフはカリフォルニア州のグランデールコミュニティカレッジに入学する。大学に入学しても1年間は高校のときに指導を受けていたコーチの元で練習を続けていた。ワイコフは前年の秋には重い感染症でのどをやられ、あわや死ぬところであったが、翌年の春には回復した。彼はその後、南カリフォルニア大学に転校し別のコーチの元で指導を受けることとなる。

ワイコフは1928年、1931年にはAAU選手権の100ヤード、1930年と1931年の全米学生選手権の100ヤードに勝利する。1930年5月には100ヤードで9.4秒の世界新記録を樹立。1ヵ月後にもう一度同じ記録を出している。

1932年ロサンゼルスオリンピックには4×100mリレーに2大会連続出場、アンカーを務めたワイコフとロバート・キーセルヘクター・ダイヤーエメット・トッピーノで挑み39.8秒の世界新記録で金メダルを獲得。

ワイコフは、さらに4年後のベルリンオリンピックに3大会連続出場。100mでは8年前と同じく、惜しくも4位に終わったが、短距離・跳躍4冠のジェシー・オーエンスラルフ・メトカーフフォイ・ドレイパーで挑んだ4×100mリレーは、39.8秒の世界タイ記録を樹立し、金メダルを獲得。ワイコフは3大会連続の金メダリストとなった。

外部リンク

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