トミー・ジョン

トマス・エドワード・ジョン・ジュニア(Thomas Edward John Jr.、1943年5月22日 - )は、アメリカ合衆国インディアナ州出身の元プロ野球選手。左投右打。

トミー・ジョン
Tommy John
2008年撮影
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 インディアナ州
生年月日 (1943-05-22) 1943年5月22日(80歳)
選手情報
投球・打席 左投右打
ポジション 投手
プロ入り 1961年
初出場 1963年9月6日
最終出場 1989年5月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

側副靱帯再建手術(トミー・ジョン手術)を最初に受けた選手として有名。怪我からの復活劇から、あだ名は「バイオニック・トミー[1]

経歴

プロ入りとインディアンス時代

1961年クリーブランド・インディアンスに入団。1963年9月6日に弱冠20歳でメジャー初登板。同年は0勝2敗、翌1964年も2勝9敗に終わる。

ホワイトソックス時代

1965年1月20日に3球団が絡む交換トレードシカゴ・ホワイトソックスへ移籍[2]。同年は14勝7敗、翌1966年も14勝10敗をあげ、2年連続でリーグ最多の完封を記録。ホワイトソックスには7シーズン在籍し、1968年にはMLBオールスターゲームに初選出。1969年を除いて毎年2桁勝利をあげる。

ドジャース時代

1971年オフにディック・アレンとの交換トレードで他の1選手と共にロサンゼルス・ドジャースへ移籍した。移籍初年度の1972年は11勝5敗、1973年は16勝7敗を記録し勝率.696はナショナルリーグ1位。1974年もシーズン途中まで13勝3敗を記録していたが[3]7月17日モントリオール・エクスポズ戦で、左肘の腱を断裂する大怪我を負う。マウンドから一目散にベンチに駆け戻り、当初選手生命はおろか、日常生活にも支障を来しかねないほどの大怪我と診断され、再起は絶望視されたが、この当時ドジャースのチームドクターだったフランク・ジョーブ博士が考案した、損傷した靱帯を切除し他の正常な腱の一部を移植するという手術を受ける。 1年以上のブランクを経て、1976年4月16日アトランタ・ブレーブス戦でメジャーに復帰。この年は207イニングを投げ10勝10敗、防御率3.09でカムバック賞ハッチ賞を受賞した。 1977年は自身初の20勝を記録する。1978年も17勝を記録したが、このシーズン限りでフリーエージェントとなる。 チームは1977年1978年と2年連続でリーグ優勝し、ワールドシリーズに進出するが、いずれも後年所属するニューヨーク・ヤンキースに敗れる。

ヤンキース時代

1979年にニューヨーク・ヤンキースにフリーエージェント移籍。同年からは2年連続20勝以上を記録するなど、手術の影響を微塵も感じさせない快投を見せた。ジョンの復活劇を受けて、ジョーブ博士が考案した腱移植手術は彼にちなんで「トミー・ジョン手術」と呼ばれるようになった。1981年にはリーグ優勝しワールドシリーズに進出するが、今度は古巣ドジャースに敗れた。

エンゼルス時代

1982年のトレード期限8月31日に後日発表の選手(デニス・ラスムッセン)との交換トレードでカリフォルニア・エンゼルスへ移籍。同年は両球団併せて14勝12敗、翌1983年は11勝13敗。手術からの復帰後、この年までは1981年のMLBストライキ でシーズンが中断された1981年を除いて毎年10勝・200イニングを続けていたが、41歳となった1984年は7勝13敗、181回1/3に終わる。

アスレチックス時代

1985年シーズン途中に解雇され、オークランド・アスレチックスと契約。このシーズンは4勝10敗に終わる。この年限りで再びフリーエージェントとなる。

ヤンキース復帰

1986年にヤンキースへ復帰。このシーズンは5勝に終わり、再びフリーエージェントとなる。このシーズンにはアスレチックスの新人マーク・マグワイア(翌年新人王)と対戦し、2安打を許すが、マグワイアの父は歯科医でジョンは受診したことがあり、「あなたの息子にヒットを打たれるようなことがあったら引退する時だろう。」と語ったという。一度はこのシーズン限りで引退して大学野球の投手コーチに就任することを示唆したが、撤回してヤンキースと再契約。 1987年は13勝6敗と4シーズンぶりの2桁勝利を記録し、契約延長。 1988年7月27日ミルウォーキー・ブルワーズ戦では、「1つの打球で3失策」を記録している。まず、ピッチャーゴロをはじいて1失策目、さらに一塁に悪送球して2失策目、一塁走者が三塁を回った時点で、右翼手デーブ・ウィンフィールドからの返球を中継したところ、本塁への送球が悪送球となり、走者の生還を許して3失策目となった。9勝8敗を記録したこのシーズン終了後に一旦解雇されるが、1989年2月に再契約。7シーズンぶりに開幕投手に起用されるが、10先発で2勝7敗の成績で、シーズン途中に引退フィル・ニークロ1939年生まれ)が1987年限りで引退したため、1988年・1989年はメジャーリーグ最年長選手だった。実働年数26シーズン[4]は当時のメジャータイ記録であったが、後年ノーラン・ライアン(27シーズン)に更新される。

通算勝利数288は左投手としては歴代7位の記録であり、手術以降の14シーズンでその半数以上にあたる164勝を挙げている。

引退後

2006年12月、独立リーグアトランティックリーグブリッジポート・ブルーフィッシュの監督に就任した。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1963 CLE 6300--020--.0009120.12316109101052.211.43
1964 251421--290--.18241294.197103540655153413.911.40
1965 CWS 392761--1472--.667752183.21621258621268067633.091.20
1966 3433105--14110--.560904223.019513574713810176652.621.13
1967 312996--10130--.435715178.11431247751105062492.471.07
1968 252551--1050--.667705177.113510494121172145391.981.04
1969 333362--9110--.450984232.1230169010112815191843.251.38
1970 3737103--12170--.4141133269.125319101169138170117983.271.31
1971 3835103--13160--.448975229.1244175855131100115923.611.32
1972 LAD 292941--1150--.688766186.217214401311710068602.891.14
1973 363142--1670--.696888218.02021650241163088753.101.16
1974 222253--1330--.813616153.013344201785051442.591.14
1976 313162--10100--.500868207.020776140917176713.091.30
1977 3131113--2070--.741906220.12251250331236082682.781.25
1978 333070--17101--.630912213.02301153751246195783.301.33
1979 NYY 3736173--2190--.7001116276.126896514111111109912.961.21
1980 3636166--2290--.7101089265.127013561678501151013.431.23
1981 202070--980--.529580140.1135103923506250412.631.24
1982 302692--10100--.500766186.2190113413545284763.661.20
CAL 7710--420--.67715235.0494500142018153.861.54
'82計 3733102--14120--.538918221.22391539136872102913.691.25
1983 343490--11130--.4581010234.2287204952651101261134.331.43
1984 322941--7130--.350797181.12231556344711097914.521.54
1985 12600--240--.33317638.15131511175022204.701.72
OAK 111100--260--.25022148.0666130182037336.191.65
'85計 231700--4100--.28639786.111792812257059535.531.68
1986 NYY 131010--530--.62529070.27381512282027232.931.25
1987 333331--1360--.684802187.2212124776639095844.031.38
1988 353200--980--.529776176.1221114646815596884.491.51
1989 101000--270--.22229063.28762223183045415.801.71
通算:26年 76070016246--2882313--.555196924710.14783302125910298224518716201717493.341.28
  • 各年度の太字はリーグ最高

獲得タイトル・表彰・記録

  • MLBオールスターゲーム選出 4回:1968年, 1977年, 1978年, 1979年
  • 最高勝率2回:1973年, 1974年
  • 実働年数:26年(歴代3位タイ)
  • 通算勝利数:288勝(歴代26位, 左腕投手では歴代7位)
  • 通算投球回:4710.1回(歴代20位, 左腕投手では歴代3位)

脚注

  1. 米本国で「バイオニック・ジェミー」が初放映されたのがジョンが手術から復帰した1976年。また、本国では「バイオニック・ジェミー」の原題が「THE BIONIC WOMAN」、ジョンのあだ名も原語では「THE BIONIC MAN」である。
  2. インディアンス、ホワイトソックスの他にカンザスシティ・アスレチックスが絡む。インディアンスからはジョン、トミー・エイジーを含む3選手がホワイトソックスに移籍。ホワイトソックスはインディアンスに1選手、アスレチックスに2選手を移籍させる。アスレチックスからはロッキー・コラビトがインディアンスに移籍する。なお、日本プロ野球ではこのような「三角トレード」は野球協約で禁止されている。
  3. 結果としてこの1974年の勝率.813もリーグ1位であった。
  4. 一年間プレイしなかった1975年は計算しない。

外部リンク

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