スタン・ハビアー

スタンリー・フリアン・アントニオ・ハビアーStanley Julián Antonio Javier, 1964年1月9日 - )は、ドミニカ共和国ドゥアルテ州サン・フランシスコ・デ・マコリス出身の元プロ野球選手外野手)。右投両打。

スタン・ハビアー
Stan Javier
AAA級ナッシュビル・サウンズ時代
(1984年)
基本情報
国籍 ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国
出身地 ドゥアルテ州サン・フランシスコ・デ・マコリス
生年月日 (1964-01-09) 1964年1月9日(59歳)
身長
体重
6' 0" =約182.9 cm
185 lb =約83.9 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 外野手
プロ入り 1981年 アマチュアFA
初出場 1984年4月15日
最終出場 2001年10月6日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

経歴

プロ入りからヤンキース時代

1981年に17歳でアマチュアFAとしてセントルイス・カージナルスと契約してプロ入り。2年間アパラチアンリーグでプレーして打率.264・11本塁打・55打点を残した後、ボビー・ミーチャムと共にニューヨーク・ヤンキースへ移籍した。2年間マイナーでプレーした後1984年4月15日にメジャーデビュー[1]。メジャーでは7打席で1安打だった。シーズン終了後、リッキー・ヘンダーソンバート・ブラッドリーとのトレードでティム・バートサスジェイ・ハウエルエリック・プランクホセ・リーホと共にオークランド・アスレチックスへ移籍した[2]

アスレチックス時代

移籍して初年度の1985年はアスレチックス傘下のAA級チームのハンツビル・スターズでプレーしサザンリーグでの優勝に貢献した[3]

1986年5月20日にアスレチックスで初めてメジャーで試合出場を果たす。

1988年はシーズン通して4人目の外野手としてメジャーに残っていた。そして自身初のポストシーズンだったがチャンピオンシップシリーズボストン・レッドソックス戦とワールドシリーズロサンゼルス・ドジャース戦の2試合で2安打ずつ放ち打率.500を残しアスレチックスはアメリカンリーグ西地区優勝となった。

1989年ホセ・カンセコが左手首の怪我によりシーズン前半を離脱したため正右翼手としてすこしの期間ではあるがプレーした[4]。スラッガーが離脱した1位のカリフォルニア・エンゼルスと1.5ゲーム差だったチーム状態を良くし2年連続のディビジョンシリーズ優勝に導いた。自身二度目のポストシーズンであったが、2試合に出場したもののヒットは打てなかった。1989年のワールドシリーズサンフランシスコ・ジャイアンツにアスレチックスが大勝したことによって父であるフリアンのワールドシリーズでの優勝回数が親子合わせて3回となった[5]。ワールドシリーズ終了後、アスレチックスの正二塁手のトニー・フィリップスがフリーエージェントでデトロイト・タイガースと契約を結んだ[6]

1990年二塁手にはマイク・ガイエゴランス・ブランケンシッププラトーン・システムの起用が目立ったが、5月の真っ最中に2人合わせて打率.144・1本塁打・10打点と散々な内容だった。そのため二塁手の補強が急務とされたために5月13日にウィリー・ランドルフとのトレードによりロサンゼルス・ドジャースへ移籍した[7]

ドジャース時代

カーク・ギブソンが左ハムストリング断裂で離脱を余儀なくされていたので[8]、すぐに正中堅手として起用された。ギブソンが復帰してからは、第4の外野手や代打に落ち着いたが今までのシーズンの中で打率が最も高かった。シーズンの残りの期間で打率.316・7打点を記録しほとんどの打点がチャンスでの物でシカゴ・カブス[9]アトランタ・ブレーブス[10]モントリオール・エキスポズ[11]フィラデルフィア・フィリーズ[12]とチームを問わず打点を残した。

1991年のスプリングトレーニングの際に三塁にコンバートさせるか試されたものの、その考えはシーズンが始まってからは放棄された。成績は前年より落ち、打率.205・1本塁打・11打点だったが、9月29日にサンフランシスコ・ジャイアンツ戦で自身の安打からサヨナラ勝ちを導いたこともあり安打を打つ能力は衰えてはいなかった[13]

1992年中頃までドジャースは31勝42敗だったため再建モードに入った。その影響で7月2日にスティーブ・サーシー後日発表選手とのトレードでフィラデルフィア・フィリーズへ移籍した。

フィリーズ時代

トレードされたものの7月2日はドジャースとフィリーズの試合だったため、移動の問題はロッカールームとユニフォームを変更するだけだった[14]。試合では4打数3安打で1四球・1打点と古巣から記録した[15]。今までのチームよりもレギュラーとしてのプレーが目立ち1992年のフィリーズの試合スケジュールの残り74試合すべてに出場した。シーズン終了後、カリフォルニア・エンゼルスと1年契約を結んだ[16]

エンゼルス時代

1993年はスロースタートとなってしまいオールスター休みまでに打率.220・0本塁打・9打点だった。シーズン後半は前半戦に比べてはるかに調子も良くなっていた。8月6日のシカゴ・ホワイトソックス戦では自身のキャリアで一番といえる4打数4安打で1四球・2打点・1得点を記録しチームを勝利に導いた[17]。また9月9日にデトロイト・タイガースビル・ガリクソンから5月22日以来となる本塁打を放ち安打も3本記録した[18]。シーズン終了の月である9月と10月に打率.387を残し、シーズン通しては打率.291まで上げることに成功した。

アスレチックス復帰

1993年シーズンオフに、正中堅手としてオークランド・アスレチックスと2年契約を結んだ[19]

1994年ストライキがあったにも関わらず、キャリアハイとなる10本塁打を記録した。

1995年は56打点・81得点・36盗塁といずれもキャリアハイだった。また36盗塁には28連続で成功した分も含まれている。

ジャイアンツ時代

1995年シーズンの活躍でアスレチックスは単年100万ドルを超える契約を提案したが、結局12月8日にディオン・サンダースの代わりの正中堅手としての獲得を望んでいたサンフランシスコ・ジャイアンツと2年で210万ドルの契約を結んだ[20]

1996年はジャイアンツでの最初のシーズンだったが、7月16日に右ハムストリングの張りで後半戦を棒に振った。怪我した当時は、ボルチモア・オリオールズボビー・ボニーヤを目指していると噂もささやかれた[21]

1997年の始めは自身の母が胃癌のために母国であるドミニカ共和国に帰国する事態も発生した。その後はダリル・ハミルトンとのセンターでのプラトーン起用やアメリカンリーグとのインターリーグでは指名打者として起用された。7月12日のテキサス・レンジャーズ戦でダレン・オリバーから3回に本塁打を打ちMLBの歴史でインターリーグが導入されて初めての本塁打だった。7回には勝ち越しとなる二塁打を放ちチームも4-3で勝利し歴史的な試合となった[22]。1996年のジャイアンツは100敗を回避したものの、ナショナルリーグ西地区で最下位だったが1997年は一転して地区優勝にこぎつけた。1997年のナショナルリーグディビジョンシリーズフロリダ・マーリンズが相手だったが3連敗を喫した。自身は12打数で5安打・1打点・2得点だった。

1998年グレナレン・ヒルがFAでシアトル・マリナーズへ移籍したため、ライトにコンバートされた。開幕戦となるヒューストン・アストロズ戦では13回に3打点となる二塁打を放ちチームも9-4と快勝を収めた[23]。二日後のラバー・ゲームとなっていたアストロズ戦ではキャリアハイとなる1試合で5打点を記録しチームに勝利をもたらした[24]。ジャイアンツは突然9月に6連勝を連ね月始めの5試合を好発進したシカゴ・カブスとのナショナルリーグメジャーリーグベースボールのワイルドカード競争となった。今期4本塁打を記録することになるが、6連勝中のコロラド・ロッキーズ戦で2本塁打を放つこれみよがしの活躍を見せた[25]リグレー・フィールドメジャーリーグベースボールワンゲームプレイオフが行われ89勝とならんでいたカブスに敗戦を喫した。プレーオフでは9回に向かうまでに5-0と負けていたが、その試合の初めての打点を挙げ、チームはこの回だけで3得点をたたき出した。しかしながらワイルドカードゲームに進むことはできなかった[26]

アストロズ時代

1999年ヒューストン・アストロズナショナルリーグ中地区で1.5ゲーム差をつけて首位だったが怪我人が続出していたため8月31日のウェイバー期限前にプロスペクトの投手であるジョー・メスマンとトレードされた[27]。移籍してからはラリー・ダーカーによって2番打者で起用され、打率.328で、12試合で12得点を挙げアストロズがポストシーズンに進むことを後押しした。シーズン後、FAとなったためシアトル・マリナーズと契約した[28]

マリナーズ時代

2000年はマリナーズで好スタートを切り、4月が終わった時点で打率.343で16得点を記録した。ただしシアトルでの在籍中の2年間の最も活躍した月もこの4月だった。6月4日のサンディエゴ・パドレス戦ではフィル・ネビンが放った本塁打となるはずだった打球をフェンスをよじ登って捕球し本塁打を奪うプレーも見せた[29]

2001年はシーズン終了後に引退することが発表された。116試合に出場し、左翼手としてアル・マーティンとのプラトーン起用が目立った。2001年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズの3戦目ではニューヨーク・ヤンキースアルフォンソ・ソリアーノが放った本塁打寸前の打球を跳躍しながら捕球をしその後のチームの逆転の狼煙を作った[30]。また2試合目にはポストシーズン唯一の本塁打をマイク・ムッシーナから放っている[31]

引退後

2006年の第1回WBCの野球ドミニカ共和国代表にゼネラル・マネージャーとして参加し[32]2009年にも同じく参加した[33]

家族

父のフリアン・ハビアー二塁手であり、1960年代から1970年代にかけてカージナルスで活躍した。また、1964年1967年にはワールドシリーズ優勝を経験しており、父子二代でチャンピオンリングを手にしている。なお、スタンという名前の由来は父の同僚のスタン・ミュージアルからである[34]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1984 NYY 7771100010000000010.143.143.143.286
1986 OAK 59131114132380031880001601272.202.305.272.577
1987 81176151222831239932601930332.185.276.258.535
1988 125440397491021332127352016332126313.257.313.320.633
1989 112348310427712319828122423111456.248.317.316.633
1990 19363348020123000030060.242.306.364.669
LAD 104321276568494311024157623720446.304.384.399.783
'90計 123357309609296312227157624020506.298.376.395.771
1991 1211971762136531501171321600364.205.268.284.552
1992 5666586113011751210621110.190.277.293.570
PHI 74313276367214108824171223102434.261.338.319.656
'92計 1303793344283171110529183323723544.249.327.314.641
1993 CAL 92269237336910439628122132711337.291.362.405.767
1994 OAK 109480419751142301016744247734912767.272.349.399.747
1995 13050444281123202817156365544934638.278.353.387.740
1996 SF 713062744474250210522142502502514.270.336.383.719
1997 14251044069126164817450253275615705.286.368.395.764
1998 135490417631211354156492154365416313.290.385.374.759
1999 1123713334992151311830136712941554.276.335.354.690
HOU 2075641221410274311190082.328.405.422.827
'99計 13244639761113192314534167823841636.285.347.365.712
2000 SEA 105392342619418551374043444220647.275.351.401.751
2001 893232814482141411033111313612478.292.375.391.766
MLB:17年 1763575550477811358225405718345032465167385782625839102.269.345.363.708

年度別守備成績



一塁(1B)二塁(2B)三塁(3B)中堅(CF)左翼(LF)右翼(RF)








































































1984 NYY ---30000-----330001.000
1986 OAK ---491142011.000340001.000-
1987 638211.976--5295313.99086010.85715100001.000
1988 4341031.000--4589130.96869104411.99130461011.000
1989 110011.000114011.000-28541001.00023360001.00072126320.985
1990 ---4160001.00040000----530001.000
LAD ---701741011.0009100001.00012211001.000
'90計 ---741901011.00013100001.00017241001.000
1991 220321.920--76010.85752420001.00018221001.000
1992 ---210001.00015140001.0001120001.000
PHI ---49147531.98127642001.000110001.000
'92計 ---51148531.98142782001.0001230001.000
1993 CAL 1264222.971220001.000-16260001.0003647220.96116280001.000
1994 OAK 130001.000-111001.000102254441.98512130001.00010000----
1995 --10000----1012773011.00032550001.00010000----
1996 SF ---53147010.993-1828220.938
1997 321012.955--46100131.971530001.00094155131.981
1998 ---2949010.9806120001.00095156121.987
1999 ---350001.0005189222.9784264221.971
HOU ---6120001.000750001.00010141001.000
'99計 ---9170001.0005894222.9805278321.976
2000 SEA 3211021.000--13252001.00047533001.0003862110.984
2001 6263041.000--13270001.0006297010.99011151011.000
MLB 3822812616.976334011.000211001.000691161823179.9904686541373.99049375615125.985
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号

  • 55(1984年)
  • 28(1986年 - 1990年途中、1994年 - 1999年途中、2000年 - 2001年)
  • 5(1990年途中 - 1992年途中)
  • 22(1992年途中 - 同年終了)
  • 25(1993年)
  • 38(1999年途中 - 同年終了)

脚注

  1. Chicago White Sox at New York Yankees Box Score, April 15, 1984 (英語). Baseball-Reference.com. 2019年3月25日閲覧。
  2. “Henderson Traded to Yankees in Seven-Man Deal”. Ottawa Citizen. (1984年12月6日). https://news.google.com/newspapers?id=b-4yAAAAIBAJ&sjid=TO8FAAAAIBAJ&pg=4993,3754277&dq
  3. “Stars Win League Title”. Times Daily. (1985年9月14日). https://news.google.com/newspapers?id=114eAAAAIBAJ&sjid=bMgEAAAAIBAJ&pg=5694,2362591&dq
  4. “Oakland's Jose Canseco Will Have Injured Left Wrist Examined”. Harlan Daily Enterprise. (1989年5月9日). https://news.google.com/newspapers?id=JUhBAAAAIBAJ&sjid=9KgMAAAAIBAJ&pg=2954,355497&dq
  5. Steve Gardner and Jeff Zillgitt (2002年10月20日). “Notebook: Seems like old times for Ortiz, Fullmer”. USA Today. http://usatoday30.usatoday.com/sports/baseball/playoffs/2002-10-20-game1-notes_x.htm
  6. “Tigers Sign Tony Phillips”. The Bryan Times. (1989年12月6日). https://news.google.com/newspapers?id=tpVTAAAAIBAJ&sjid=_ocDAAAAIBAJ&pg=6810,2228617&dq
  7. “Athletics Trade Javier for Randolph”. Bangor Daily News. (1990年5月14日). https://news.google.com/newspapers?id=Pa5JAAAAIBAJ&sjid=qQ4NAAAAIBAJ&pg=2786,4693030&dq
  8. “Dodgers Put Gibson on 15-Day Disabled List”. Deseret News. (1990年4月1日). https://news.google.com/newspapers?id=FosnAAAAIBAJ&sjid=x4QDAAAAIBAJ&pg=2885,365617&dq
  9. Los Angeles Dodgers 5, Chicago Cubs 3”. Baseball-Reference.com (1990年7月13日). 2019年6月22日閲覧。
  10. Los Angeles Dodgers 4, Atlanta Braves 3”. Baseball-Reference.com (1990年7月29日). 2019年6月22日閲覧。
  11. Los Angeles Dodgers 3, Montreal Expos 2”. Baseball-Reference.com (1990年8月18日). 2019年6月22日閲覧。
  12. Los Angeles Dodgers 3, Philadelphia Phillies 2”. Baseball-Reference.com (1990年8月22日). 2019年6月22日閲覧。
  13. Los Angeles Dodgers 3, San Francisco Giants 2”. Baseball-Reference.com (1991年9月29日). 2019年6月22日閲覧。
  14. “Javier Suits Up for Dodgers, Then Phils”. The Post and Courier. (1992年7月3日). https://news.google.com/newspapers?id=4qlbAAAAIBAJ&sjid=2FENAAAAIBAJ&pg=3013,846141&dq
  15. Los Angeles Dodgers 9, Philadelphia Phillies 4”. Baseball-Reference.com (1992年7月2日). 2019年6月22日閲覧。
  16. “115 Major Leaguers File for Salary Arbitration”. Post and Courier. (1993年1月16日). https://news.google.com/newspapers?id=o1NSAAAAIBAJ&sjid=rDYNAAAAIBAJ&pg=1396,115104&dq
  17. California Angels 7, Chicago White Sox 3”. Baseball-Reference.com (1993年8月6日). 2019年6月22日閲覧。
  18. “Magrane, Relievers Hurl Shutout”. Spencer, Iowa Daily Reporter. (1993年9月10日). https://news.google.com/newspapers?id=HVorAAAAIBAJ&sjid=bgEFAAAAIBAJ&pg=3225,1394693&dq
  19. “Red Sox Sign Outfielder Nixon”. Telegraph Herald. (1993年12月8日). https://news.google.com/newspapers?id=lA1eAAAAIBAJ&sjid=9l8NAAAAIBAJ&pg=2574,1688721&dq
  20. Ronald Blum (1995年12月9日). “More Free Agents Sign”. The Bryan Times. https://news.google.com/newspapers?id=8ZNTAAAAIBAJ&sjid=v4cDAAAAIBAJ&pg=3625,4063079&dq
  21. “Braves Throw Strikes Over the Health Plate”. The Register-Guard. (1996年7月28日). https://news.google.com/newspapers?id=uElWAAAAIBAJ&sjid=IusDAAAAIBAJ&pg=6885,7446513&dq
  22. “Rangers Fall to Giants, 4-3”. Altus Times. (1997年6月13日). https://news.google.com/newspapers?id=8W5DAAAAIBAJ&sjid=IK4MAAAAIBAJ&pg=4561,4774666&dq
  23. San Francisco Giants 9, Houston Astros 4”. Baseball-Reference.com (1998年3月31日). 2019年6月22日閲覧。
  24. “Javier Shines With 5 RBIs”. The Union Democrat. (1998年4月3日). https://news.google.com/newspapers?id=WCtZAAAAIBAJ&sjid=O0cNAAAAIBAJ&pg=6585,421990&dq
  25. “Giants Tap an Unexpected Power Source”. New York Times. (1998年9月27日). https://www.nytimes.com/1998/09/27/sports/baseball-giants-tap-an-unexpected-power-source.html
  26. Chicago Cubs 5, San Francisco Giants 3”. Baseball-Reference.com (1998年9月28日). 2019年6月22日閲覧。
  27. “Red Sox Acquire Cubs Reliever Beck”. Wilmington Morning Star. (1999年9月1日). https://news.google.com/newspapers?id=yL1OAAAAIBAJ&sjid=2x4EAAAAIBAJ&pg=3375,81917&dq
  28. “Mariners Sign McLemore, Javier”. Ellensburg Daily Record. (1999年12月21日). https://news.google.com/newspapers?id=WcYeAAAAIBAJ&sjid=vsoEAAAAIBAJ&pg=1704,4323721&dq
  29. “Javier's Great Catch Saves Seattle's Win”. Eugene Register-Guard. (2000年6月5日). https://news.google.com/newspapers?id=h1NWAAAAIBAJ&sjid=hOsDAAAAIBAJ&pg=6797,1601508&dq
  30. Josh Dubow (2001年10月22日). “Mariners Rout Yankees 14-3 Behind Boone”. Bangor Daily News. https://news.google.com/newspapers?id=jqVJAAAAIBAJ&sjid=qQ0NAAAAIBAJ&pg=1516,2104554&dq
  31. 2001 American League Championship Series, Game Two”. Baseball-Reference.com (2001年10月18日). 2019年6月22日閲覧。
  32. Janie McCauley (2006年3月17日). “Dominican Fans Catch Classic Fever”. Bangor Daily News. https://news.google.com/newspapers?id=5AE1AAAAIBAJ&sjid=O08KAAAAIBAJ&pg=4270,871071&dq
  33. Christian Red (2009年3月6日). “Team Dominican adjusts to WBC without Alex Rodriguez”. New York Daily News. http://www.nydailynews.com/sports/baseball/yankees/team-dominican-adjusts-wbc-alex-rodriguez-article-1.369438
  34. 「スタン・ハビアー」『マリナーズ地区優勝&ポストシーズン展望号』ベースボール・マガジン社 63頁

関連項目

外部リンク

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