アリゾナ・カージナルス

アリゾナ・カージナルス英語: Arizona Cardinals、略称: ARI)は、アメリカ合衆国アリゾナ州フェニックス近郊のグレンデールに本拠地をおくNFLチーム。NFC西地区に所属している(2001年までNFC東地区に所属していた)。1898年モーガン・アスレチッククラブとして設立された、現存する最古のプロフットボールチームである。ホームスタジアムはステートファーム・スタジアム。本部と練習場は、グレンデールと同じフェニックス都市圏のテンピに位置している。

アリゾナ・カージナルス
Arizona Cardinals
創設 1898年 (1898)
NFL参入 1920年シーズン
所属地区
  • NFL(1920-現在)
    • NFC(1970-現在)
    西地区(2002-現在)
    東地区(1970-2001)
    • 東カンファレンス(1953-1969)
    センチュリー地区(1967-1969)
    地区分けなし(1953-1966)
    • アメリカン・カンファレンス(1950-1952)
    • 東地区(1933-1949)
    • 地区分けなし(1920-1932)
  • 独立チーム(1913-1919)
  • アマチュアチーム(1898-1906)
チームデザイン
チームロゴ
チームカラー
  カーディナルレッド
 
 
ユニフォーム
チーム名
  • アリゾナ・カージナルス(1994-現在)
    • フェニックス・カージナルス(1988-1993)
    • セントルイス・カージナルス(1960-1987)
    • シカゴ・カージナルス(1922-1943, 1945-1959)
    • カード・ピット(1944)[注 1]
    • ラシーン・カージナルス(1919-1921)
    • ラシーンストリート・カージナルス(1901-1906, 1913-1918)
    • ラシーン・ノーマルズ(1899-1900)
    • モーガン・アスレチッククラブ(1898-1899)
ホームタウン
アリゾナ・カージナルスの位置(アメリカ合衆国内)
1988-現在
1988-現在
1960-1987
1960-1987
1920-1959
1920-1959

アリゾナ州グレンデール(2006-現在)
アリゾナ州テンピ(1988-2005)
ミズーリ州セントルイス(1960-1987)
イリノイ州シカゴ(1920-1959)

ステートファーム・スタジアム
 ユニバーシティ・オブ・フェニックス・スタジアム
(2006-現在)
サンデビル・スタジアム(1988-2005)
ブッシュ・スタジアムII
 シビックセンター・ブッシュ・メモリアル・スタジアム
(1966-1987)
ブッシュ・スタジアム(1960-1965)
リグレー・フィールド(1931-1938)
コミスキー・パーク(1922-1925, 1929-1930, 1939-1958)
ノーマル・フィールド(1920-1921, 1926-1928)

永久欠番
獲得タイトル
スーパーボウル創設(1966年)以降
スーパーボウル・チャンピオン (0回)
カンファレンス・チャンピオン (1回)
NFC
地区優勝 (5回)
旧NFC東地区
NFC西地区
ワイルドカード(3回)
プレーオフ進出(9/57回)
AFL合併(1969年)以前
NFLチャンピオン
地区優勝
NFL西
球団組織
オーナーマイケル・ビドウィル
GMモンティ・オッセンフォート
ヘッドコーチジョナサン・ギャノンd

スーパーボウルが始まる前の1925年、1947年にNFLチャンピオンとなっている。第43回スーパーボウルに出場している。

概要

アリゾナ・カージナルスは、1898年モーガン・アスレチッククラブ(Morgan Athletic Club)の名称でイリノイ州シカゴで設立されたアマチュアのフットボールチームを発端とする。チーム名は1899年ラシーン・ノーマルズ(Racine Normals)、1901年ラシーンストリート・カージナルス(Racine Street Cardinals)[注 2]1919年ラシーン・カージナルス(Racine Cardinals)へと変更された。1920年9月17日、第一期メンバーとしてNFL(当時はAPFA)へ加入した。NFL創成期から在籍しているチームは、現在ではカージナルスとシカゴ・ベアーズ(当時は、デカター・ステイリーズ)の2チームのみである[注 3]1922年シカゴ・カージナルス(Chicago Cardinals)に改名した。その後、1960年にシカゴからミズーリ州セントルイスに移転し、セントルイス・カージナルス(St. Louis Cardinals)の名称で1987年まで本拠地を置いていた[注 4]1988年には、アリゾナ州テンピに移転し、チーム名はフェニックス・カージナルス(Phoenix Cardinals)と改称され、アリゾナ州立大学のキャンパス内にあるサンデビル・スタジアムをホームスタジアムとした。1994年には、チーム名が現在のアリゾナ・カージナルス(Arizona Cardinals)へ変更された。2006年、ホームスタジアムをグレンデールステートファーム・スタジアム(当時は、ユニバーシティ・オブ・フェニックス・スタジアム)に移転したが、チームの本部と練習施設は引き続きテンペに置かれている。

チームは、シカゴ時代に2度のNFLチャンピオンを果たしている。 1925年にチーム初のNFLチャンピオンを制覇した際、ポッツビル・マルーンズとの間で論争が巻き起こっている。 2度目は1947年に果たした。

現在チームは、1947年のチャンピオン獲得以来、75シーズン連続で優勝から遠のいており、これは北米4大プロスポーツリーグの中で最長記録である。2012年、NFL初となる700敗を記録した。2020年シーズン終了時点のこれまでの勝敗記録(レギュラーシーズンとプレーオフゲームを含む)は、573勝780敗41分[注 5]である。プレーオフへは10度出場するも、カンファレンス優勝は2008年の1度のみで、出場した第43回スーパーボウルでは27–23でピッツバーグ・スティーラーズに敗れている。

夏季トレーニングキャンプは、1988年から2012年まで(プレスコットで実施した2005年を除く)長らくフラッグスタッフ北アリゾナ大学で実施していたが、2013年からは本拠地のユニバーシティ・オブ・フェニックス・スタジアムで実施している。

歴史

創成期・シカゴ時代

1898年に創設されたモーガン・アスレティック・クラブ
シカゴ・カージナルスのロゴマーク

チームは1898年にクリス・オブライエンにより、モーガン・アスレチッククラブとしてシカゴで創設された。1899年にチームはホームスタジアムをノーマル・パークに移しラシーン・ノーマルズと改称、1901年にシカゴ大学からマルーンのユニフォームを購入した。この時オーナーはこれはマルーンではなくカーディナルレッド枢機卿の礼服の色)だと述べ、それがチームの愛称となりラシーンストリート・カージナルス(Racine Street Cardinals)と改称した。チーム名のラシーンは、シカゴのラシーン・アベニューから取られた。1906年にいったんチームは解散したが1913年にプロチームとして再建された。1918年に第一次世界大戦スペインかぜの影響で活動を一時停止したが年内に活動を再開した。

1920年ラシーン・カージナルスとしてNFL(当時は、アメリカン・プロフェッショナル・フットボール・アソシエーション、1922年に現名称)に加入し、オリジナルメンバーとなった。NFL発足当時から現在まで存続しているチームは他にシカゴ・ベアーズ(当初はデカター・ステイリーズ)のみである。1922年にウィスコンシン州ラシーンを本拠地とするホーリック・ラシーン・リージョンが加入したため、俗称のシカゴ・カージナルスを正式にチーム名とし、同時に本拠地もコミスキー・パークに移した。1925年に11勝2敗1分の成績でチームは初めてNFLチャンピオンとなった。1929年、オブライエンオーナーはデビッド・ジョーンズへ2万5000ドルでチームを売却した。その後1932年にジョーンズからチャールズ・ビドウィルへチームの売却について合意がなされたがシカゴ・ベアーズの株式を持っていたビドウィルがこれを売却する1933年まで合意が公表されることはなかった。

その後1930年代には10年間で2回しか勝ち越しできなかった。1933年よりリーグは東西2つに分かれることとなったが、カージナルスはウェスタン・ディビジョンに所属することとなった。1936年から1945年までは10シーズン連続で負け越した。第二次世界大戦の影響で1944年に1シーズンのみピッツバーグ・スティーラーズと合同チームを結成しカード・ピット(Card-Pitt)となったが10連敗に終わった。

1945年は1勝に終わったものの1946年には6勝5敗と勝ち越し、1947年に9勝3敗の成績を上げたチームはその年のNFLチャンピオンシップゲームフィラデルフィア・イーグルスを28-21で破り2度目のNFLチャンピオンとなった。しかし優勝の8ヶ月前にビドウィルオーナーは肺炎のために亡くなっており未亡人のバイオレット・ビドウィルがオーナーに就任していた。この時のスター選手はQBポール・クリストマン、HBチャーリー・トリッピエルマー・アングズマン、FBのパット・ハーダーらであった。1948年チームは11勝1敗で2年連続NFLチャンピオンシップゲームに出場したがこの年は0-7でフィラデルフィア・イーグルスに敗れた。1949年バイオレットオーナーはミズーリ州セントルイスの実業家、ウォルター・ウォルフナーと結婚した。チームは6勝5敗1分でシーズンを終えた。

1950年、NFLにオール・アメリカ・フットボール・カンファレンス(AAFC)から4チームが加入した際、アメリカン・カンファレンス(1953年からイースタン・カンファレンス)に所属することとなった。チームは1950年代の10年でわずか33勝しかあげることができず観客はまばらとなりチームは倒産寸前となった。

セントルイス時代

1959年シーズン終了後、フランチャイズをセントルイスに移転し、セントルイス・カージナルス(St. Louis Cardinals、MLB球団のセントルイス・カージナルスと同じ愛称)と改称した。この移転には1960年からNFLに対抗するAFLが誕生する際にセントルイスに球団が設立されるのを阻止する目的も含まれたものであった。セントルイスへの移転はNFLのオーナー会議にかけられて12人のオーナーによる全会一致で移転は承認された。この時代のスター選手はラリー・ウィルソンチャーリー・ジョンソンジム・バッケンソニー・ランドルジム・ハートらである。

1962年にバイオレットは亡くなり息子のチャールズ・ビドウィル・ジュニア、ビル・ビドウィルがチームを運営するようになった。1964年、ビドウィルオーナーはアトランタにチームを移転することを検討したが新スタジアムを建設するので留まるようセントルイス市当局の訴えを受け、移転は白紙となりアトランタにはアトランタ・ファルコンズが新フランチャイズとして誕生することとなった。

1965年チームは4勝1敗と好スタートを切ったが5勝9敗でシーズンを終えた。1966年も一時8勝2敗1分でイースタン・カンファレンストップを走ったがそこから3連敗して8勝5敗1分となりプレーオフ出場は果たせなかった。1967年チームはイースタン・カンファレンスのセンチュリー・ディビジョンに所属することとなった。この年は6勝7敗1分で終えた。1968年、9勝4敗1分の好成績を残したがプレーオフ出場は叶わなかった。1969年は4勝9敗1分に終わったがこの年から14シーズン、カージナルスでプレーし後にプロフットボール殿堂入りを果たしたロジャー・ウェールリミズーリ大学から入団し先発セイフティとして活躍した。1970年のNFLとAFLの統合した際にNFCの東地区に所属することとなった。

1970年11月、チームはヒューストン・オイラーズニューイングランド・ペイトリオッツダラス・カウボーイズに3試合連続で完封勝利を果たした。コットン・ボウルで行われたマンデーナイトフットボールのカウボーイズ戦では38-0の大勝であった。しかしシーズン最後3試合のニューヨーク・ジャイアンツデトロイト・ライオンズワシントン・レッドスキンズ戦に3連敗し8勝5敗1分に終わりプレーオフを逃した。1971年から1973年までは3年連続4勝9敗1分に終わった。なお1972年からビル・ビドウィルが単独オーナーとなり現在までチームを所有している。1つのファミリーがNFLチームを所有している期間としてこれより長いのはニューヨーク・ジャイアンツシカゴ・ベアーズだけである。

1972年シーズン終了後、ラリー・ウィルソンが現役を引退、1973年チームにサンディエゴ州立大学からドン・コリエルがヘッドコーチに就任した。1974年、チームは開幕から7連勝を果たしNFC東地区優勝を果たした。チームがプレーオフに出場するのは1948年以来のことであった。プレーオフ、敵地メトロポリタン・スタジアムで行われたミネソタ・バイキングス戦でチームは7-0と先制したがハーフタイム前にFGに失敗するとモメンタムを失い後半開始7分で16失点するなど14-30で敗れた。

1975年もチームは地区優勝を果たしたがロサンゼルス・メモリアル・コロシアムで行われたロサンゼルス・ラムズ戦でローレンス・マッカチオンにNFLのプレーオフ記録となる202ヤードを走られジャック・ヤングブラッドビル・シンプソンにインターセプトリターンTDを許すなど23-35で敗れた。この時代チームはダン・ディアードルフコンラッド・ドブラートム・バンクスといった優れたオフェンスラインに支えられた。この時代のチームは接戦が多くメディアやファンはCardic Cardinals とチームを呼んだ。この時代のスターはウェールリ、メル・グレイテリー・メトカーフジム・オーティスであった。

1976年、チームは10勝4敗の好成績を残したが、同じ10勝4敗となった同地区のワシントン・レッドスキンズに2敗しており、NFCのチームとして10勝しながら初めてプレーオフ出場を逃したチームとなった。1977年チームはシーズン途中6連勝を果たしたがその後翌1978年にまたがり12連敗した。この連敗の中には1976年創設されてから26連敗し、ホームではまだ勝ち星をあげていいなかったタンパベイ・バッカニアーズタンパ・スタジアムで敗れた試合も含まれた。1977年シーズン終了とともにコリエルヘッドコーチ、メトカーフ、ドブラーはチームを去った。

1978年チームはオクラホマ大学を17年間指揮した名将、バド・ウィルキンソンを新ヘッドコーチに迎えた。しかしウィルキンソンは1963年を最後にコーチを引退しており、1978年、チームは開幕から8連敗し6勝10敗、1979年も3勝10敗の成績で解任され最後の3試合はラリー・ウィルソンが暫定ヘッドコーチに就任し5勝11敗で終えた。この時代チームはドラフトの失敗や不幸な出来事が重なった。1978年のドラフト1巡で指名されたスティーブ・リトルは1980年に交通事故で選手生命を失い、1979年のトレーニングキャンプ中にJ・V・ケイン心臓発作で死去した。

カージナルスは28シーズンをセントルイスで戦ったがその間プレーオフに出場したのは1974年、1975年、1982年のわずか3回であり187勝202敗13分、勝率.481に終わった。

1982年から1984年までチームは3年連続で勝ち越した。この時代のスターはQBニール・ロマックス、WRロイ・グリーン、RBオーティス・アンダーソンである。1982年ストライキで短縮されたシーズンを5勝4敗で終えたチームは16チームが出場することとなったプレーオフに出場したがグリーンベイ・パッカーズに16-41で敗れた。

WRのロイ・グリーン(1986年)

1983年、チームはこの年第18回スーパーボウルを制するオークランド・レイダースを破るなど8勝7敗1分の成績を残した。1984年、チームは最終週のワシントン・レッドスキンズに勝利すればプレーオフ出場を果たせるところであったが逆転を狙ったFGが失敗し27-29で敗れた。1985年、チームは3勝1敗と好スタートを切ったが5勝11敗に終わり、6シーズンチームの指揮を執ったジム・ハニファンはチームを去った。彼の後任となったのがトム・ランドリーのもとでアシスタントコーチを務めたこともあるテキサス農工大学の元ヘッドコーチ、ジーン・スターリングである。1986年、4勝11敗1分、1987年、7勝8敗とチーム成績は改善された。この年のタンパベイ・バッカニアーズ戦では3-28と25点差リードされた状況から第4Qに28点を取り、31-28と逆転勝利をおさめた。これは第4Q最大得点差からの逆転勝利としてNFL記録となっている。

この時期、老朽化したブッシュ・メモリアル・スタジアムやチーム成績の影響で観客数は伸び悩み、ビドウィルオーナーはボルチモアフェニックスジャクソンビルなどへの移転を検討した。いったんは地元ファンの反対もあり計画は中止されたが1987年ホーム最後のゲームとなったニューヨーク・ジャイアンツ戦は29,623人の観客しか入らなかった。そして翌1988年アリゾナ州フェニックス都市圏に移転し、フェニックス・カージナルス(Phoenix Cardinals)と改称した。

アリゾナ時代

アリゾナへ移転を果たしたものの、貯蓄貸付組合からの資金調達ができず、新スタジアム建設は果たせなかった。そのため、テンピにあるアリゾナ州立大学が所有するサンデビル・スタジアムを本拠地とした。アリゾナに移転してからもチームはNFC東地区に所属した。そのためロードゲームにおける移動距離はNFL一であることが多かった。また73,000人収容可能なスタジアムに観客は平均35,000人しか入らずチケットが完売するのは平均して年に8試合中2試合ほどであった。

1994年3月に現在のアリゾナ・カージナルスと改称した。

2002年ヒューストン・テキサンズが加入した際の地区再編でそれまで所属していたNFC東地区からNFC西地区に移った。この年のドラフト3巡目でQBジョシュ・マカウンを指名した。

2004年4月にカージナルスに所属しながらアメリカ陸軍のレンジャー部隊に所属していたパット・ティルマンイラク戦争従軍中に戦死した。カージナルスはティルマンの死を悼み背番号「40」を永久欠番とした。
同年のドラフト1巡目全体3位でピッツバーグ大学WRのラリー・フィッツジェラルドを獲得した。

2006年から本拠地としているステートファーム・スタジアム(当時は、ユニバーシティ・オブ・フェニックス・スタジアム)

2006年からはアリゾナ州の外部団体が所有する、ユニバーシティ・オブ・フェニックス・スタジアムに本拠地を移した。フェニックス大学は命名権を有するだけで、この後、カーディナルスは大学チームとスタジアムを共用してはいない。

2007年ピッツバーグ・スティーラーズのオフェンシブ・コーディネーターだったケン・ウィゼンハントがヘッドコーチに就任した。NFLドラフトでは、1巡目全体5位でペンシルベニア州立大学のOTリーバイ・ブラウンを指名した。

2008年、ドラフトでは1巡目(全体16位)でテネシー州立大学のコーナーバックドミニク・ロジャース=クロマティを指名した。シーズンでは、1975年以来で、NFC西地区では初となる地区優勝を果たした。地区優勝を決めた後、調子を落としたもののプレーオフに入ってからQBカート・ワーナーWRラリー・フィッツジェラルドらの活躍、レギュラーシーズン不振だったディフェンスのがんばりでアトランタ・ファルコンズカロライナ・パンサーズフィラデルフィア・イーグルスを破りピッツバーグ・スティーラーズ第43回スーパーボウルで対戦した。前半終了間際、ワーナーのパスがエンドゾーンでインターセプトされ100ヤードリターンタッチダウンをされるなど大きくリードされたがその後フィッツジェラルドへのTDパス2本が決まり逆転を果たした。しかし終了1分を切ったところでスティーラーズの逆転タッチダウンが決まりスーパーボウル初制覇はならなかった。

パスをキャッチするラリー・フィッツジェラルド

2009年、チームは2年連続で地区優勝を果たし、シーズンでは10勝6敗とアリゾナ移転以来の最も良い成績だった。プレーオフでは、ニューオーリンズ・セインツに14-45で敗れた。シーズン終了後、QBのカート・ワーナーは引退した。

2010年のシーズンオフにQBデレック・アンダーソンを獲得、ワーナーの後継として期待がかかっていたマット・ライナート(2006年ドラフト全体10位指名)はシーズン開幕前に解雇された[1]。シーズン開幕後、不安定なアンダーソンに代わりドラフト外で入団した新人QBマックス・ホールが先発を務めることとなった。

2011年フィラデルフィア・イーグルスからQBケビン・コルブを獲得した。コルブは故障がちでジョン・スケルトンと併用された。ドラフト1巡目全体5位で獲得したCBパトリック・ピーターソンがパントリターンで4タッチダウンをあげる活躍を見せた。オーバータイムでの勝利も何度かあり、8勝8敗でシーズンを終えた。

2012年、開幕直前までケビン・コルブジョン・スケルトンが先発QB争いを行ったが、両者ともにプレシーズンゲームでは結果を残せないまま、スケルトンが開幕戦のエースQBに指名された。その後、スケルトンが負傷退場、コルブがQBを務める中、1974年以来となる開幕からの4連勝をあげたが[2]、その後9連敗するなど、残り12試合で11敗し、5勝11敗でシーズンを終えた。シーズン終了後、ヘッドコーチのケン・ウィゼンハント、GMのロッド・グレイブズは解任された[3]。後任のヘッドコーチにはインディアナポリス・コルツで病気のためチームを離脱したチャック・パガーノの代わりに2012年シーズン途中指揮を執っていたブルース・エリアンスが就任した。

2013年、2013年ドラフト6巡指名権及び2014年ドラフト条件付き指名権と引き換えに4月2日、オークランド・レイダースからカーソン・パーマーをトレードで獲得した。10勝をするもプレーオフ進出はならなかった。翌2014年は前年を上回る11勝をし、セントルイスに本拠地を置いていた1975年以来最も多くの勝利を上げた。プレーオフでは、カロライナ・パンサーズに敗れた。2015年、コーチインターンとしてジェニファー・ウィルターを採用した。ウィルターはNFL初の女性コーチであると考えられている。シーズンでは13勝を上げ、6年ぶりの地区優勝を果たした。NFCチャンピオンシップゲームではパンサーズに2年連続でプレーオフで敗北した。エリアンスがヘッドコーチに就任して以降、スーパーボウル進出こそ果たせていないものの、レギュラーシーズンは3年連続で勝ち越しを果たした。エリアンスはコルツでペイトン・マニングアンドリュー・ラックピッツバーグ・スティーラーズベン・ロスリスバーガーを指導するなど[4]QB育成の実績を残してきたが、ここでもハイズマン賞受賞者でありながら安定した成績を残せずにいたカーソン・パーマーを正QBとして成長させ[5]、手腕を示した。

前年の好成績から優勝候補となっていた2016年は、7勝8敗1分と負け越した。2017年デビッド・ジョンソンやパーマーの怪我もあり、勝ち越すことはできず、2年連続してプレーオフを逃し、エリアンスは退任した。また、QBカーソン・パーマーもこの年限りの引退となった。カロライナ・パンサーズのディフェンシブ・コーディネーターだったスティーブ・ウィルクスが後任のヘッドコーチに就任した。

2018年、シーズン開始前にGMのスティーブ・カイムが飲酒運転で逮捕され、5週間の停職処分となった。シーズンでは、QBに新加入のサム・ブラッドフォードが起用されるも、4週目からはこの年のドラフト1巡目指名のジョシュ・ローゼンが起用されている。シーズン途中にQBブラッドフォード、オフェンシブ・コーディネーターのマイク・マッコイが解雇された。その結果、地区最下位かつカンファレンス最下位、3年連続でプレーオフを逃した。シーズン後、ヘッドコーチのウィルクスは解雇された。後任のヘッドコーチにはテキサス工科大学の元ヘッドコーチのクリフ・キングズベリーが就任した。

2019年、ドラフト全体1位でオクラホマ大学QBのカイラー・マレーを指名した。マレー指名後、ジョシュ・ローゼンはマイアミ・ドルフィンズへトレードされた。シーズンでは、マレーを先発QBとして起用するも、5勝10敗1分で2年連続で地区最下位となった。

2020年、シーズン直前にヒューストン・テキサンズからWRのディアンドレ・ホプキンスを獲得した[6]。シーズンでは、新型コロナウイルスの流行により、開幕2戦目と3戦目が無観客試合となった[7]。この年は、8勝8敗の地区3位となり、5年連続でプレーオフを逃した。シーズン後、ヒューストン・テキサンズからDEのJ・J・ワット[8]シンシナティ・ベンガルズからWRのA・J・グリーン[9]を獲得した。テネシー・タイタンズからCBのマルコム・バトラー[10]も獲得したが、8月31日に個人的な理由で引退した[11]

2021年は本シーズンから4試合から3試合に減らされたプレシーズンゲームのうち最終戦をハリケーンによるニューオーリンズの被害により中止とされるも、開幕後はマレーを擁して7連勝を重ねた。終盤5試合は1勝にとどまって地区優勝できなかったものの、ワイルドカードで6年ぶりにプレーオフに進出した。初戦でロサンゼルス・ラムズに敗れた。

2022年は苦しみ、2022年12月12日のペイトリオッツ戦でマレーがACL断裂のシーズン中復帰不可能な重傷を負った[12]。翌週にはプレーオフ出場をのがすことが決まった。地区最下位でシーズンを終え、HCのキングズベリーは解任され、GMのカイムは病気のために退任した[13]。GMの後任にはテネシー・タイタンズで選手人事部門責任者であったモンティ・オッセンフォートが就任した。2023年2月14日、イーグルスDCのジョナサン・ギャノンがHCに就任した。

文化

ビッグ・レッド

マスコット

チームの公式マスコットは、1998年に登場した猩々紅冠鳥ビッグ・レッド(Big Red)である。シカゴ時代から使用されているチームのロゴマークを元にマスコット化したもので、NFLの中でもとりわけ知名度の高いマスコットである。

2023年シーズン

2023年シーズンのカージナルスの対戦相手
AFCNFC
前年西地区南地区北地区東地区西地区南地区北地区東地区
1位 チーフス ジャガーズ ベンガルズ ビルズ 49ers バッカニアーズ バイキングス イーグルス
2位 チャージャーズ タイタンズ レイブンズ ドルフィンズ シーホークス パンサーズ ライオンズ カウボーイズ
3位 レイダース コルツ スティーラーズ ペイトリオッツ ラムズ セインツ パッカーズ ジャイアンツ
4位 ブロンコス テキサンズ ブラウンズ ジェッツ カージナルス ファルコンズ ベアーズ コマンダース

 :1度対戦  :2度対戦

2022年シーズン成績

NFC西地区 2022
チーム勝率総得点総失点平均得点平均失点
(2)サンフランシスコ・49ers 1340.765450277 26.516.3
(7)シアトル・シーホークス 980.529407401 23.923.6
ロサンゼルス・ラムズ 5120.294307384 18.122.6
アリゾナ・カージナルス 4130.235340449 20.026.4
NFC 2022
順位チーム地区勝率対地区対NFC対戦
相手
勝率
勝利
相手
勝率
地区優勝
1 フィラデルフィア・イーグルス 1430.8244–29–3.474.460
2[lower-alpha 1] サンフランシスコ・49ers 西 1340.7656–010–2.417.414
3[lower-alpha 1] ミネソタ・バイキングス 1340.7654–28–4.474.425
4 タンパベイ・バッカニアーズ 890.4714–28–4.503.426
ワイルドカード
5 ダラス・カウボーイズ 1250.7064–28–4.507.485
6 ニューヨーク・ジャイアンツ 971.5591–4-14–7-1.526.395
7[lower-alpha 2] シアトル・シーホークス 西 980.5294–26–6.462.382
レギュラーシーズン敗退
8[lower-alpha 2] デトロイト・ライオンズ 980.5295–17–5.535.451
9 ワシントン・コマンダース 881.5002–3-15–6-1.536.449
10 グリーンベイ・パッカーズ 890.4713–36–6.524.449
11[lower-alpha 3] カロライナ・パンサーズ 7100.4124–26–6.474.437
12[lower-alpha 3][lower-alpha 4] ニューオーリンズ・セインツ 7100.4122–45–7.507.462
13[lower-alpha 3][lower-alpha 4] アトランタ・ファルコンズ 7100.4122–46–6.467.429
14 ロサンゼルス・ラムズ 西 5120.2941–53–9.517.341
15 アリゾナ・カージナルス 西 4130.2351–53–9.529.368
16 シカゴ・ベアーズ 3140.1760–61–11.571.480
タイブレーク
  1. カンファレンス内勝率で49ersがバイキングスを上回る
  2. 第4週の直接対決でシーホークスがライオンズに勝利
  3. 同地区3チーム内の対戦勝率でパンサーズが1位なので、パンサーズの11位が確定
  4. 同地区直接対決2戦のいずれもセインツがファルコンズに勝利

成績

NFC西地区(2002年-現在)

地区優勝2位3位4位
チームチームチームチーム
2022 SF(2c)1340 SEA(7w)980 LAR5120 ARI4130
2021 LAR(4v)1250 ARI(5w)1160 SF(6c)1070 SEA7100
2020 SEA(3w)1240 LAR(6d)1060 ARI880 SF6100
2019 SF(1s)1330 SEA(5d)1150 LAR970 ARI5101
2018 LAR(2s)1330 SEA(5w)1060 SF4120 ARI3130
2017 LAR(3w)1150 SEA970 ARI880 SF6100
2016 SEA(3d)1051 ARI781 LA4120 SF2140
2015 ARI(2c)1330 SEA(6d)1060 StL790 SF5110
2014 SEA(1s)1240 ARI(5w)1150 SF880 StL6100
2013 SEA(1v)1330 SF(5c)1240 ARI1060 StL790
2012 SF(2s)1141 SEA(5d)1150 StL781 ARI5110
2011 SF(2c)1330 ARI880 SEA790 StL2140
2010 SEA(4d)790 StL790 SF6100 ARI5110
2009 ARI(4d)1060 SF880 SEA5110 StL1150
2008 ARI(4s)970 SF790 SEA4120 StL2140
2007 SEA(3d)1060 ARI880 SF5110 StL3130
2006 SEA(4d)970 StL880 SF790 ARI5110
2005 SEA(1s)1330 StL6100 ARI5110 SF4120
2004 SEA(4w)970 StL(5d)880 SF790 ARI5110
2003 StL(2d)1240 SEA(5w)1060 SF790 ARI4120
2002 SF(4d)1060 StL790 SEA790 ARI5110

NFC東地区(1970年-2001年)

  • DAL:ダラス・カウボーイズ、NYG:ニューヨーク・ジャイアンツ、WAS:ワシントン・レッドスキンズ、PHI:フィラデルフィア・イーグルス、StL→PHO→ARI:セントルイス・カージナルス→フェニックス・カージナルス→アリゾナ・カージナルス
  • 1982年シーズンはストライキの影響により、地区別成績ではなくカンファレンス上位8チームがプレイオフ進出するルールであったが、ここでは地区別に変換して表記する。
  • 括弧内の数字はプレイオフ出場時のシード順(シード制導入前は表記なし)、文字はv:スーパーボウル優勝、s:スーパーボウル敗退・カンファレンス優勝、c:カンファレンス決勝敗退、d:ディビジョナルプレーオフ敗退、w:ワイルドカードプレイオフ敗退。1982年についてはd:2回戦敗退、w:1回戦敗退。
年度地区優勝2位3位4位5位
チームチームチームチームチーム
2001 PHI(3c)1150 WAS880 NYG790 ARI790 DAL5110
2000 NYG(1s)1240 PHI(4d)1150 WAS880 DAL5110 ARI3130
1999 WAS(3d)1060 DAL(5w)880 NYG790 ARI6100 PHI5110
1998 DAL(3w)1060 ARI(6d)970 NYG880 WAS6100 PHI3130
1997 NYG(3w)1051 WAS871 PHI691 DAL6100 ARI4120
1996 DAL(3d)1060 PHI(5w)1060 WAS970 ARI790 NYG6100
1995 DAL(1v)1240 PHI(4d)1060 WAS6100 NYG5110 ARI4120
1994 DAL(2c)1240 NYG970 ARI880 PHI790 WAS3130
1993 DAL(1v)1240 NYG(4d)1150 PHI880 PHO790 WAS4120
1992 DAL(2v)1330 PHI(5d)1150 WAS(6d)970 NYG6100 PHO4120
1991 WAS(1v)1420 DAL(5d)1150 PHI1060 NYG880 PHO4120
1990 NYG(2v)1330 PHI(4w)1060 WAS(5d)1060 DAL790 PHO5110
1989 NYG(2d)1240 PHI(4w)1150 WAS1060 PHO5110 DAL1150
1988 PHI(3d)1060 NYG1060 WAS790 PHO790 DAL3130
1987 WAS(3v)1140 DAL780 StL780 PHI780 NYG690
1986 NYG(1v)1420 WAS(4c)1240 DAL790 PHI5101 StL4111
1985 DAL(3d)1060 NYG(4d)1060 WAS1060 PHI790 StL5110
1984 WAS(2d)1150 NYG(5d)970 StL970 DAL970 PHI691
1983 WAS(1s)1420 DAL(4w)1240 StL871 PHI5110 NYG3121
1982 WAS(1v)810 DAL(2c)630 StL(6w)531 NYG450 PHI360
1981 DAL(2c)1240 PHI(4w)1060 NYG(5d)970 WAS880 StL790
1980 PHI(2s)1240 DAL(4c)1240 WAS6100 StL5110 NYG4120
1979 DAL(1d)1150 PHI(4d)1150 WAS1060 NYG6100 StL5110
1978 DAL(2s)1240 PHI(5w)970 WAS880 StL6100 NYG6100
1977 DAL(1v)1220 WAS950 StL770 PHI590 NYG590
1976 DAL(2d)1130 WAS(4d)1040 StL1040 PHI4100 NYG3110
1975 StL(3d)1130 DAL(4s)1040 WAS860 NYG590 PHI4100
1974 StL(d)1040 WAS(d)1040 DAL860 PHI770 NYG2120
1973 DAL(c)1040 WAS(d)1040 PHI581 StL491 NYG2111
1972 WAS(s)1130 DAL(c)1040 NYG860 PHI491 StL2111
1971 DAL(v)1130 WAS(d)941 PHI671 StL491 NYG4100
1970 DAL(s)1040 NYG950 StL851 WAS680 PHI3101

NFL東カンファレンス・センチュリー地区(1967年-1969年)

地区優勝2位3位4位
チームチームチームチーム
1969 CLE(n)1031 NY680 StL491 PIT1130
1968 CLE(n)1040 StL941 NO491 PIT2111
1967 CLE(c)950 NY770 StL671 PIT491

NFL東カンファレンス(1953年-1966年)

優勝2位3位4位5位6位7位8位
チームチームチームチームチームチームチームチーム
1966 DAL(n)1031 CLE950 PHI950 StL851 WAS770 PIT581 ATL3110 NY1121
スーパーボウル開始
1965 CLE(n)1130 DAL770 NY770 WAS680 PHI590 StL590 PIT2120
1964 CLE(v)1130 StL932 PHI680 WAS680 DAL581 PIT590 NY2102
1963 NY(n)1130 CLE1040 StL950 PIT743 DAL4100 WAS3110 PHI2102
1962 NY(n)1220 PIT950 CLE761 WAS572 DAL581 StL491 PHI3101
1961 NY(n)1031 PHI1040 CLE851 StL770 PIT680 DAL491 WAS1121
1960 PHI(v)1020 CLE831 NY642 StL651 PIT561 WAS192
1959 NY(n)1020 CLE750 PHI750 PIT561 WAS192 CHC2100
1958 NY(n)930 CLE930 PIT741 WAS471 CHC291 PHI291
1957 CLE(n)921 NY750 PIT660 WAS561 PHI480 CHC390
1956 NY(v)831 CHC750 WAS660 CLE570 PIT570 PHI381
1955 CLE(v)921 WAS840 NY651 CHC471 PHI471 PIT480
1954 CLE(v)930 PHI741 NY750 PIT570 WAS390 CHC2100
1953 CLE(n)1110 PHI741 WAS651 PIT660 NY390 CHC1101

NFLアメリカン・カンファレンス(1950年-1952年)

優勝2位3位4位5位6位
チームチームチームチームチームチーム
1952 CLE(n)840 NY750 PHI750 PIT570 CHC480 WAS480
1951 CLE(n)1110 NYG921 WAS570 PIT471 PHI480 CHC390
1950 CLE(v)102x NYG102x PHI66x PIT66x CHC57x WAS39x

NFL西地区(1933年-1949年)

優勝2位3位4位5位6位
チームチームチームチームチームチーム
1949 LA(n)822 CHB930 CHC651 DET480 GB2100
1948 CHC(n)1110 CHB1020 LA651 GB390 DET2100
1947 CHC(v)930 CHB840 GB651 LA660 DET390
1946 CHB(v)821 LA641 GB650 CHC650 DET1100
1945 CLE(v)910 DET730 GB640 CHB370 CHC190
1944 GB(v)820 CHI631 DET631 CLE460 Card-Pitt0100
1943 CHB(v)811 GB721 DET361 CHC0100
1942 CHB(n)1100 GB821 CLE560 CHC380 DET0110
1941 CHB(v)1010 GB1010 DET461 CHC371 CLE290
1940 CHB(v)830 GB641 DET551 CLE461 CHC272
1939 GB(v)920 CHB830 DET650 CLE551 CHC1100
1938 GB(n)830 DET740 CHB650 CLE470 CHC290
1937 CHB(n)911 GB740 DET740 CHC551 CLE1100
1936 GB(v)1011 CHB930 DET840 CHC281
1935 DET(v)732 GB840 CHB642 CHC642
1934 CHB(n)1300 DET1030 GB760 CHC560 StL120 CIN080
1933 CHB(v)1021 POR650 GB571 CIN361 CHC191

NFL(1920年-1932年)





チーム
チーム
チーム
チーム
チーム
チーム
1932 8 1 CHB716 2 GB1031 3 POR624 4 BOS442 5 NY462 7 CHC262
1931 10 1 GB1220 2 POR1130 3 CHB850 4 CHC540 5 NY761
1930 11 1 GB1031 2 NY1340 3 CHB941 7 CHC562 8 POR563
1929 12 1 GB1201 2 NY1311 4 CHC661 9 CHB492
1928 10 4 GB643 5 CHB751 6 NYG472 9 CHC150
1927 12 1 NYG1111 2 GB721 3 CHB932 9 CHC371
1926 22 2 CHB1213 5 GB733 6 NY841 10 CHC561
1925 20 1 CHC1121 4 NY840 7 CHB953 9 GB850
1924 18 2 CHB614 6 GB740 8 CHC541
1923 20 2 CHB921 3 GB721 6 CHC840
1922 18 2 CHB930 3 CHC830 8 GB433
1921 21 1 CHS932 7 GB721 9 CHC332
1920 14 2 DEC1012 4 CHC622

主な選手

永久欠番

アリゾナ・カージナルス 永久欠番一覧
背番号 選手 ポジション 在籍期間
8ラリー・ウィルソンLarry WilsonS1960–1972
40パット・ティルマンPat TillmanS1998–2001
77スタン・モールディンStan MauldinOT1946–1948
88J・V・ケインJ. V. CainTE1974–1978
99マーシャル・ゴールドバーグ[* 1]Marshall GoldbergHB1939–1943, 1946–1948
  1. J・J・ワットはゴールドバーグの娘の許可を得て、2021年から背番号99を着用している。

プロフットボール殿堂入り

プロフットボール殿堂入りメンバー一覧
選手
背番号名前ポジション在籍期間選出年
4アーニー・ネバーズErnie NeversFB1929–19311963
-ヘッドコーチ1930–1931, 1939
-ジム・ソープJim ThorpeRB19281963
13ガイ・チェンバレンGuy ChamberlinEnd、ヘッドコーチ1927–19281965
1パディ・ドリスコルJohn "Paddy" DriscollQB1920–19251965
-コーチ1920–1922
2ウォルト・キースリングWalt KieslingGDT1929–19331966
-コーチ1944
62, 2チャーリー・トリッピCharley TrippiRB1947–19551968
33オーリー・マトソンOllie MatsonRB1952, 1954–19581972
81ナイト・トレイン・レーンDick "Night Train" LaneCB1954–19591974
8ラリー・ウィルソンLarry WilsonS1960–19721978
13ドン・メイナードDon MaynardWR19731987
81ジャッキー・スミスJackie SmithTE1963–19771994
72ダン・ディアードルフDan DierdorfT1971–19831996
22ロジャー・ウェールリRoger WehrliCB1969–19822007
22エミット・スミスEmmitt SmithRB2003–20042010
35アニーアス・ウィリアムズAeneas WilliamsCB1991–20002014
13カート・ワーナーKurt WarnerQB2005–20092017
32エジャリン・ジェームスEdgerrin JamesRB2006–20082020
16デューク・スレイターDuke SlaterT1926–19312020
66アラン・ファニカAlan FanecaG20102021
コーチ・エグゼクティブ
名前役職在籍期間選出年
カーリー・ランボーEarl "Curly" Lambeauヘッドコーチ1950–19511963
ジミー・コンツェルマンJimmy Conzelmanヘッドコーチ1940–1942, 1946–19481964
チャールズ・ビドウェルCharles Bidwillオーナー1933–19471967
ジョー・スタイダハーJoe Stydaharヘッドコーチ1953–19541967

リング・オブ・オナー

著名選手

歴代ヘッドコーチ

ガイ・チェンバレン
カーリー・ランボー

1920年以降

  • パディ・ドリスコル (1920-1922)
  • アーノルド・ホーウィーン (1923-1924)
  • ノーマン・バリー (1925-1926)
  • ガイ・チェンバレン (1927)
  • フレッド・ギリーズ (1928)
  • デウェイ・スキャンロン (1929)
  • アーニー・ネバーズ (1929-1930)
  • リロイ・アンドリュース (1931)
  • ジャック・シュヴィニー (1932)
  • ポール・シスラー (1933-1934)
  • ミラン・クレイトン (1935-1938)
  • アーニー・ネバーズ (1939)
  • ジミー・コンツェルマン (1940-1942)
  • フィル・ハンドラー (1943-1945)
  • ジミー・コンツェルマン (1946-1948)
  • カーリー・ランボー (1950-1951)
  • フィル・ハンドラー (1951)
  • ジョー・キュハリッチ (1952)
  • ジョー・スタイダハー (1953-1954)
  • レイ・リチャーズ (1955-1957)
  • ポップ・アイビー (1958-1961)
  • ウォリー・レム (1962-1965)
  • チャーリー・ウィナー (1966-1970)
  • ボブ・ホロウェイ (1971-1972)
  • ドン・コリエル (1973-1977)
  • バド・ウィルキンソン (1978-1979)
  • ラリー・ウィルソン (interim) (1979)
  • ジム・ハニファン (1980-1985)
  • ジーン・スターリングス (1986-1989)
  • ハンク・キュールマン (interim) (1989)
  • ジョー・ビューゲル (1990-1993)
  • バディ・ライアン (1994-1995)
  • ビンス・トービン (1996-1999)
  • デイブ・マクギニス (2000-2003)
  • デニス・グリーン (2004-2006)
  • ケン・ウィゼンハント (2007-2012)
  • ブルース・エリアンス (2013-2017)
  • スティーブ・ウィルクス (2018-2018)
  • クリフ・キングズベリー (2019-2022)
  • ジョナサン・ギャノン (2023-)

脚注

注釈

  1. ピッツバーグ・スティーラーズとの合同チーム
  2. 1906年に一度チームは解散し、1913年に再び結成された
  3. グリーンベイ・パッカーズは、1921年にNFLに参加するまでリーグに属さない独立チームだった
  4. MLBの同名チームとの混同を避けるため、地元では「フットボールカージナルス」、「グリッドバード」、「ビッグレッド」などと呼ばれていた
  5. レギュラーシーズンでは566勝771敗41分、プレーオフでは7勝9敗

出典

  1. カーディナルスがQBライナート放出、アンダーソン先発に”. NFL JAPAN (2010年9月5日). 2010年9月9日閲覧。
  2. 【第5週プレビュー】大躍進のカーディナルス、開幕5連勝は?”. NFL JAPAN (2012年10月4日). 2012年10月20日閲覧。
  3. カーディナルス、HCとGMの他にも攻撃コーチ陣を一掃”. NFL JAPAN (2013年1月1日). 2013年1月2日閲覧。
  4. 新HCたちの挑戦 -アンディ・リード&ブルース・アリアンズ-”. NFL JAPAN (2013年5月23日). 2016年10月3日閲覧。
  5. QBパーマー、「カーディナルスのオフェンスは完全開花」”. NFL JAPAN (2014年5月27日). 2016年10月3日閲覧。
  6. カーディナルスがWRホプキンスと2年57億円で契約延長”. NFL JAPAN (2020年9月9日). 2021年4月29日閲覧。
  7. アリゾナ・カーディナルスが無観客での2020年レギュラーシーズン開幕を発表”. NFL JAPAN (2020年8月30日). 2021年4月29日閲覧。
  8. J.J.ワットがカーディナルスと2年契約”. NFL JAPAN (2021年3月2日). 2021年4月29日閲覧。
  9. カーディナルスがWRのA.J.グリーンと1年8億円超えの契約”. NFL JAPAN (2021年3月18日). 2021年4月29日閲覧。
  10. CBバトラーがカーディナルスと最大6億円の1年契約”. NFL JAPAN (2021年3月26日). 2021年4月29日閲覧。
  11. Cardinals place CB Malcolm Butler on reserved/retired list”. NFL.com. 2022年8月17日閲覧。
  12. カーディナルスQBマレーはACL断裂でシーズン終了”. NFL Japan. 2022年12月14日閲覧。
  13. カーディナルスがキングスベリーHCを解任、カイムGMは健康状態に専念するため退任”. NFL Japan. 2022年1月10日閲覧。

外部リンク

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