WD シュレッパー
WD シュレッパー(WD Schlepper)は、戦間期の1927年に、ドイツ軍によって試作された、牽引車(トラクター)をベースとした自走砲である。
WD シュレッパー 7.7 cm軽野砲搭載型 | |
基礎データ | |
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全長 | 3.3 m (4.4 m) |
全幅 | 2.2 m (2.3 m) |
全高 | 1.46 m |
重量 | 5 t (6 t) |
乗員数 | 2 名 |
装甲・武装 | |
装甲 | 不明 |
主武装 | 3.7 cm対戦車砲 (7.7 cm軽野砲)×1 |
副武装 | MG08 7.92 mm 重機関銃×1 |
機動力 | |
整地速度 | 6 km/h |
不整地速度 | 不明 |
エンジン |
(4気筒4ストロークガソリン) 25 hp (50 hp) |
行動距離 | 不明 |
実験用としての意味合いの強い車両である。
概要
「WD」は、基となった牽引車(トラクター)の設計者である、エルンスト・ヴェンデラー(Ernst Wendeler)とボグスラフ・ドールン(Boguslav Dohrn)のファミリーネームの最初の文字の組み合わせである。「シュレッパー」とは、ドイツ語で「牽引車(トラクター)」の意味である。
元が牽引車(トラクター)なので、エンジンの燃料として、ガソリンの他にベンジンや石油を用いることも可能である。
歩兵に追従して火力支援を行うことが可能な重火砲として開発された、二人乗りの自走砲で、砲兵によって運用された。後の突撃砲の先駆と言える。
しかし、第一次世界大戦におけるトラクターをベースとした戦車開発の黎明期の経験や、後のオデッサ戦車やハリコフ戦車でも実証されるように、こうしたトラクターベースの車両は、鈍足かつ走行能力が低いので、実戦においては防衛戦でしか使い道が無く、ドイツの(俗に言うところの)「電撃戦ドクトリン」(「諸兵科協同による指揮および戦闘」や「軍隊指揮」などの教範)とは合わなかったであろうことは容易に想像できる。逆に言えば、元より実戦に使う意図は無かったのであろう。
また、前面にシールド(防盾)があるのみで、牽引車(トラクター)も装甲化されておらず、防御力はほぼ皆無である。
本車の後継として、既存の牽引車(トラクター)の流用ではなく、本格的な自走砲専用車台として、L.S.K.(leichte Selbstfahrkanone、ライヒト・ゼルプストファール・カノーネ、「軽自走砲」の意)が、クルップ社によって開発された。
各型
「WD シュレッパー」と呼ばれる車両には、2種類が存在した。
それぞれ1両ずつ、計2両が試作され、ソビエト連邦領内カザン近郊の、「カマ戦車兵学校」試験場で試験・研究された。
3.7 cm WD シュレッパー 25 馬力
一つは、ハノマーク社製の25 馬力の「WD 25」牽引車のシャーシに、「3.7 cm TaK28 L/45 対戦車砲」を搭載した「3.7 cm WD シュレッパー 25 馬力」である。
シャーシの上に据え付けられた主砲は、前面を防盾で覆われた限定旋回式で、左右に30度ずつ振ることができた。自衛用火器として機関銃も搭載された。
1928年には、主砲を、より長砲身の「3.7 cm PaK L/65 対戦車砲」に換装し、「3.7 cm PaK L/65 LHB-牽引車自走砲架(シュレッパー ゼルプストファールラフェッテ)」と名付けられた。
7.7 cm WD シュレッパー 50 馬力
もう一つは、ハノマーク社製の50 馬力の「WD 50(WD Z 50)」牽引車のシャーシに、「7.7 cm-FK 96 nA L/23 軽野砲」を搭載した「7.7 cm WD シュレッパー 50 馬力」である。
シャーシの上に据え付けられた防盾付の主砲は、全周旋回式であった。自衛用火器として、主砲の左側にMG08 7.92 mm重機関銃も搭載された。
WD牽引車を基にした装輪装軌併用式戦車(コロホウセンカ)
7.7 cm WD シュレッパーの基体である「WD 50」牽引車は、1920年から1931年までの期間に渡り製造され、好評を博した。ソ連でも「Kommunar(クモナール)」の名称で生産された。
1920年代は、戦車の機動性向上の試みの一つとして、装輪装軌併用式戦車(コンバーチブルドライブ車)の開発が、欧米各国で流行した時代でもあった。ヴェルサイユ条約により、戦車の開発を禁じられたドイツでは、多くの戦車技術者が職に就けなくなり、他国へと渡った。ヨーゼフ・フォルマーもその一人であった。
戦車の機動性向上に関心のあった彼は、戦後、チェコスロバキアへと渡り、1924年にハノマーク社製「WD 50」牽引車を基に、「KH-50 装輪装軌併用式戦車」を開発した。チェコスロバキアは、「WD 50」のライセンス生産を、1923年から開始していた。
「WD 50」のエンジンを後方に、操縦席を前方に、移設し、装輪走行に移行するには、木製のスロープ上に本車を乗り上げて、地面から浮かせた後、シャーシの両側面に、片面2つずつ、計4つの車輪を手で取り付ける方式であった。
装輪時の速度は35 km/hで、装軌時の速度は15 km/hであった。これらは決して高速ではなく、これはベースとなった牽引車のエンジン出力の不足からくるものであった。解決策はエンジン出力を向上させることであった。
1927年、エンジン出力を60馬力に向上させた、改良型の「KH-60 装輪装軌併用式戦車」が開発された。シャーシも車体上部も砲塔も再設計された。これにより、装輪時の速度は45 km/hに、装軌時の速度は18 km/hに、向上した。武装は、シュコダ 37 mm 歩兵砲を1門、もしくは、シュワルツローゼ vz.24 重機関銃を2挺、を装備した。
1929年、最後の改良型である「KH-70 装輪装軌併用式戦車」が開発された。エンジン出力は70馬力で、装輪時の最高速度は60 km/hまで向上した。武装は旋回砲塔にヴィッカース 47 mm砲を装備した。
これら一連の装輪装軌併用式戦車を、チェコ語では「コロホウセンカ」と呼ぶ。「コロ」は車輪、「ホウセンカ」は履帯を意味する。
ソ連が2両のKH-60を、イタリアが1両のKH-70を、技術的参考目的で購入している。
結局、装輪装軌併用式戦車(コンバーチブルドライブ車)の試みは、戦車の重量増大とともに、実用的ではなくなり、廃れていった。
チェコスロバキアにおける装輪装軌併用式戦車の開発計画は、後に、「中型複合サスペンション攻撃車」(Kombinovaný střední útočný)計画へと発展して、1935年まで続き、「シュコダ S-III 戦車」と「タトラ T-III 戦車」が開発された。