鷹取城
鷹取城(たかとりじょう)は、福岡県直方市永満寺に所在する日本の城。別名、鷹取山城。
(福岡県) | |
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別名 | 鷹取山城、高取城 |
城郭構造 | 連郭式山城 |
築城主 | 長谷川吉武 |
築城年 | 永承元年(1046年) |
主な改修者 | 黒田長政 |
主な城主 | 少弐氏、大友氏、黒田氏(母里友信) |
廃城年 | 慶長20年(1615年) |
遺構 | 曲輪、石垣 |
指定文化財 | 未指定 |
位置 | 北緯33度44分22.0秒 東経130度47分18.4秒 |
地図 |
鷹取城 |
なお、同時代に肥前鷹取城(筑紫氏領)とその西に肥前鷹取山城(少弐氏領)、筑前高鳥居城(杉氏、秋月氏、筑紫氏、星野氏領)、筑後鷹取城(星野氏領)など読音違いや同名の城があるので、常に混同された状況がある。
概要
城は福智山の支峰、鷹取山(標高633メートル)上に築かれた。中世の城郭の中でも屈指の標高を誇り、近世城郭としては他に例の無い高所に築かれた山城である。近世城郭としての鷹取城は、さながらトーチカを思わせる鉄壁の要塞であった。
歴史・沿革
平安時代から室町時代
最初に城を築いたのは、長谷川吉武というこの地に勢力を張っていた武士団の頭領であった。家臣の永井宗久に命じて築城したが、おそらく当時は砦に近いものであったと想像される[1]。
その後、後醍醐天皇:元弘3年/光厳天皇:正慶2年(1333年)、小弐頼尚がこの地に再度築城した。南朝:興国6年/北朝:康永4年、貞和元年(1345年)、小弐氏の家臣(分家)・筑紫統種が城主に任じられ、その後数代に渡り筑紫氏の居城となった。
城郭
近世城郭としての鷹取城は、南北約100メートル、東西約80メートルほどであり、小規模なものである。しかし城郭は上下2段の曲輪で構成され、虎口は四ヶ所に設けられ、全周を石垣と櫓で囲い、その規模の小ささの割には異例というほどの防御設備で固めており、さながらトーチカを思わせるような鉄壁の要塞であった。
脚注
- 「直方市バーチャルミュージアム:鷹取城」直方市公式HP
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