高橋豊二
高橋 豊二(たかはし とよじ、1915年9月[1] - 1940年3月5日)は、東京府出身のサッカー選手。ポジションはフォワード。貴族院子爵議員を務めた高橋是賢の次男で[1]、第20代内閣総理大臣の高橋是清は祖父に当たる。
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名前 | ||||||
カタカナ | タカハシ トヨジ | |||||
ラテン文字 | TAKAHASHI Toyoji | |||||
基本情報 | ||||||
生年月日 |
1915年9月 大日本帝国、東京府 | |||||
没年月日 |
1940年3月5日(満24歳没) 大日本帝国, 千葉県館山市 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
東京帝国大学 | ||||||
代表歴 | ||||||
1936 | 日本 | 0 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
略歴
成城中学時代よりサッカーを始め、東京帝国大学農学部に入学後もア式蹴球部に所属した[2]。在学中の1936年に開催されたベルリンオリンピックのサッカー日本代表に選出され、オリンピック本選(1回戦のスウェーデン代表戦(ベルリンの奇跡)、2回戦のイタリア代表戦)での出場機会は無かったが、ヴァッカー 戦など親善試合3試合に出場した[3]。
是清が祖父であったため、当時のチームメイトからは「マゴ」と呼ばれていたという。なお、豊二がベルリン五輪代表に選出される直前の1936年2月26日、是清は二・二六事件によって暗殺されている。
大学卒業後、海軍に入隊し航空予備学生となったが、1940年3月に館山海軍航空隊で訓練中の事故により殉職した。享年26(数え年)。ベルリンオリンピック日本代表では最初の物故者であった。
代表歴
出場大会
1936年:親善試合
脚注
- 『平成新修旧華族家系大成』下巻(霞会館、1996年)、25頁。
- 『朝日新聞』 (1936年4月24日)、2014年9月27日閲覧
- “国際親善試合 (1936.07.14) ベルリン”. 日本サッカー協会. 2014年9月6日閲覧。
参考文献
- 佐藤朝泰『門閥 旧華族階層の復権』、1987年、立風書房
- 曾根幹子「「戦没オリンピアン」をめぐる調査と課題 ―広島県出身選手を事例に―」『広島市公文書館紀要』第32号、2020年、1-13頁。
- 表1 日本人戦没オリンピアン(2020年1月末日現在)(pp.9-10)
外部リンク
- 高橋豊二 - Olympedia (英語)
- 歴史が眠る多磨霊園 - 高橋豊二
- 日本代表試合別出場記録 (PDF) - 日本サッカー協会
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