阿部正精
阿部 正精(あべ まさきよ)は、江戸時代後期の大名。備後国福山藩の第5代藩主。江戸幕府の幕閣で老中を務めた。阿部家宗家9代。官位は従四位下・侍従。
凡例 阿部正精 | |
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阿部正精像 | |
時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 安永3年12月24日(1775年1月25日) |
死没 | 文政9年6月20日(1826年7月24日) |
官位 | 対馬守、備中守、従四位下侍従 |
幕府 | 江戸幕府奏者番兼寺社奉行、老中 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 備後福山藩主 |
氏族 | 阿部氏 |
父母 | 父:阿部正倫、母:津軽信寧の娘 |
兄弟 | 正精、土岐頼潤、定子、松平乗寛正室、稲葉正備正室、島、三浦毗次正室、板倉勝尚正室、土井利謙正室ら |
妻 |
正室:土屋篤直の娘 継室:松平頼謙の娘・錫 側室:井出氏、高野貝美子 |
子 | 正粹、正寧、正弘、戸田忠温正室、井上正春正室、久世広周正室ら |
生涯
第4代藩主・阿部正倫の3男として江戸で生まれる。享和3年(1803年)に正倫の隠居により30歳で家督を相続する。
襲封から半年も経たない文化元年(1804年)に奏者番に就任し、同年寺社奉行を兼任する。その後、病を患い寺社奉行を辞任するが、文化7年(1810年)に再任される。文化14年(1817年)、寛政の改革期から通算26年間にわたり幕閣内に残留する老中首座・松平信明が危篤に陥ったため、将軍徳川家斉は密かに幕閣改造を企てる。まず側近の水野忠成を側用人兼務のまま老中格に上げ、続いて正精を寺社奉行から大坂城代、京都所司代を飛び越えさせて老中に抜擢した。これは、家斉が寛政の改革の厳しさを嫌っての人事であり、正精が保守派にとって都合の良い存在であったことが窺える。実際、正精の老中在任中に空前の賄賂政治が横行することになった。
正精の老中在職中の功績として、江戸の範囲を確定したことが挙げられる。それには次のようなエピソードがある。
江戸御府内という言葉があるが、言葉だけが独り歩きして、区画が具体的にどこからどこまで指すのかが不明であった。ある大名から書面で伺い書が出され、正精は文政5年(1822年)12月、朱線で囲った地図とともに次のような通達を出している。これは「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」というもので、
- 東 … 中川限り
- 西 … 神田上水限り
- 南 … 南品川町を含む目黒川辺
- 北 … 荒川・石神井川下流限り
としたものである。
文政6年(1823年)、正精は病のため老中職を辞し、同9年(1826年)に53歳で藩主在任のまま卒する。跡は三男・正寧が継いだ。
藩政において正精は、先代・正倫の始めた財政再建を継承し、経費削減と負債償還を目指して特定の豪商・豪農に便宜を図り、藩財政に寄与させ、鞆港(鞆の浦)の整備に力を入れた。しかし、10万両を超えるといわれる負債は利子を返済するのがやっとで、財政の健全化に程遠い状況なのは変わりはなかった。
また、江戸駒込藩邸内に学問所を設置したり、民間救済機関で文化教育に取り組む「福府義倉」を援助し、朱子学者菅茶山に歴史書「福山志料」の編纂を命じているなど、文化政策に熱心であった。そのため、文化の興隆は阿部期の福山藩で最盛期を迎え、自身も多くの書画を残した。