阿史那元慶
生涯
垂拱(685年 - 688年)の初め、唐は弥射の子で左豹韜衛翊府中郎将の元慶を左玉鈐衛将軍兼崑陵都護に抜擢し、興昔亡可汗(こうせきぼうかがん)[1]を襲名させ、五咄六部落[2]をとりしまらせた。また、歩真の子の斛瑟羅を右玉鈐衛将軍兼濛池都護とし、五弩失畢部落をとりしまらせ、唐は元慶を左衛大将軍に昇進させた。
如意元年(692年)、元慶は彼が謀反を謀ったという来俊臣の讒言にあって殺害され[3]、その子の阿史那献は崖州へ流刑に処された[4][5]。
子
脚注
参考資料
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