金森頼旹
金森 頼旹(かなもり よりとき)は、江戸時代前期の大名、側用人。飛騨高山藩第6代藩主、のち出羽上山藩主、美濃郡上藩主。能書家で、和歌や茶を嗜んだ。
凡例 金森 頼旹 | |
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金森頼旹像 | |
時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 寛文9年(1669年) |
死没 | 元文元年5月23日(1736年7月1日) |
改名 | 萬助(幼名)、頼旹 |
戒名 | 僊龍院静翁観山大居士 |
墓所 | 京都金龍院(現在の龍源院) |
官位 | 従五位下出雲守(1683年:天和3年) |
幕府 | 江戸幕府奥詰、側用人 |
主君 | 徳川家綱→綱吉→家宣→家継→吉宗 |
藩 | 飛騨高山藩、出羽上山藩、美濃郡上藩 |
氏族 | 金森氏 |
父母 | 父:金森頼業、母:井上正任の娘[1] |
兄弟 | 重誥 |
子 |
可寛、可充(次男)、可麗(三男)、 酒井重信(四男)、紋之助(五男)、 駒之助(六男) 養嗣子:頼錦 |
生涯
飛騨高山藩第5代藩主金森頼業の長男として生まれた。父が若くして死んだため、4歳で家督を相続する。幼少時は叔父の金森近供が後見した。若い頃は酒好きで素行が悪かったと伝わっており、藩士田島藤五郎が切腹し行状を諌めたとする説がある。元禄2年(1689年)、21歳で幕府の奥詰衆、のちに側用人に任命されたが、翌年4月に解任された[2]。解任の理由には、第5代将軍徳川綱吉の意に合わなかった、品行が良くなかった、柳沢吉保により失脚させられたなど諸説ある。綱吉の周辺では譜代外様や大名旗本を問わず、若くして抜擢され累進を重ねたりするが、急激に寵を失い失脚した例が多々ある。
脚注
- 頼旹は妾腹の子である、とする文献もある
- 『新訂寛政重修諸家譜第六』株式会社続群書類従完成会、1964年、256頁
関連項目
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