諸葛恢
経歴
若くしてその才能を知られ、西晋で即丘県令・臨沂県令として治績をあげた。永嘉の乱が起こると江東に逃れ、東晋に仕えた。王導の琅邪王氏と並び、その名声は高かった。若い頃、王導に彼は黒髪の宰相になるだろうと言われた。また、潁川の荀闓(荀藩の子)・陳留の蔡謨は、共に字が「道明」で、やはり名声があった。そこで、諸葛恢と合わせて「中興三明」と称賛された。
東晋では元帝・明帝・成帝に仕え、成帝の咸康8年(342年)に尚書令に至る。
咸康7年(341年)、燕王を自称していた前燕の慕容皝が東晋に、燕王の公認を求める使者として劉翔らを送った。慕容皝は後趙の石虎と争っていたため、東晋に接近したのである。諸葛恢は劉翔の姉の夫であったが、「夷狄が争っているのは中国の利であります。しかし器と名は、軽々しく許してはなりません」と公認に反対した。しかし結局、東晋は慕容皝の王位を公認した。
関連項目
- 清和政策研究会 - 元帝が諸葛恢の統治を称賛した詔にある「政清人和(まつりごと清ければ人おのずから和す)」の語句が名称の由来。
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