襞襟
沿革
シャツから取り外すことができ、頻繁に取り替えて上着の襟元と肌やひげなどが直接触れる部分の清潔を保つためのラッフル (ruffle) が元になっており、元来は実用的な機能を持つものであったが、洗濯糊の発見とともに長い襞襟の形を保たせることができるようになり、次第にその大きさや仕上げの精巧さが競われるようになった。
果ては半径数十センチになろうかという蛇腹状の円盤が首を覆う様相を呈するに至り、針金の枠を必要とするものもあった。糊付けの際に黄色、ピンク色、薄紫に着色することもあった。写真のように、当時は男女両方とも襞襟をつけ、子供も着用した。
西ヨーロッパでは、16世紀末にはウィングカラーや垂れ下がるバンズ (Bands) に流行が移って襞襟の着用はすたれたが、オランダ以東では襞襟の着用がもっと長く続いた。
戦国時代から江戸時代初期の日本でも、南蛮貿易にともなってもちこまれた「南蛮装束」のひとつとして大名や富裕な商人の間で大いに流行し、和服と組み合わせることもあった。そのため、この時代南蛮貿易やキリシタンにかかわった人物を描写する際(時代劇の俳優の衣装や、銅像・イラスト・キャラクター商品等)の重要な衣装小道具のひとつとなっている。[注 1]
現在でも、北ドイツのハンザ同盟都市の市議会議員や、同地域およびデンマークのルーテル教会の聖職者、バチカンのスイス衛兵の礼装に襞襟が残っている。
使用例
- 『花嫁の肖像』(ヨハネス・コルネリスゾーン・フェルスプロンク画、1640年オランダ)
- 伊東マンショ, 1585年
参考文献
- 丹野郁『南蛮服飾の研究 西洋衣服の日本衣服文化に与えた影響』雄山閣出版、1976年(復刻新装版、1993年)。
- 丹野郁『西洋服飾史 図説編』東京堂出版、2003年。
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