蜂須賀正利
蜂須賀 正利(はちすか まさとし)は、戦国時代の武将。尾張国に力を持つ国人領主であった。蜂須賀正成[2]の次男。正室は某氏、継室は大橋定広の娘。
凡例 蜂須賀 正利 | |
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 生年不詳 |
死没 | 天文22年2月25日[1](1553年4月7日) |
別名 | 通称:小六(小六郎)、蔵人、彦右衛門、法名:正定 |
戒名 | 秀月正定禅門 |
墓所 | 高野山光明院 |
氏族 | 蜂須賀氏 |
父母 | 父:蜂須賀正成[2] |
兄弟 | 正忠[3]、正利、実道[4] |
妻 |
正室:某氏[6]、継室:大橋定広の娘[8] 側室:某氏[9](正勝の生母) 側室:安井御前(安井重幸の娘) |
子 | 正勝、又十郎、正信[10]、墨[11](織田喜七郎室)、正元、女(梶浦雅範室) |
略歴
諸系図によれば蜂須賀氏は斯波氏の支流として清和源氏の末裔を称し、尾張守護の斯波義重に従って尾張国に入り、海東郡蜂須賀村[12](現在のあま市)を代々領した。同村にある蜂須賀城主の蜂須賀正永(広秋)は祖父、父正成はその次男にあたる。
正成は尾張守護家に仕えていたが、動乱により一族は別れた。長男正忠[3]は三河国に流れたか、または織田信秀に仕えたらしい。後年その子正刻(政刻)は松平家康に仕え、本多忠勝与力となっている。次男正利の子が正勝で、『藩翰譜』によれば、正利は蜂須賀百貫の地を知行を兼ね、北尾張の被官を務めたという。『蜂須賀家記』では初めは濱姓を名乗り、次に斎藤姓を、蜂須賀村に二百貫の知行を得て、蜂須賀姓にしたとある[5]。
斯波氏の凋落後は、正利の家族は美濃国の戦国大名斎藤道三に従った。
小和田哲男は『豊臣秀吉』で、豊臣秀吉の父木下弥右衛門は正利に仕えたとし、その縁で秀吉は少年時代に正利の子である正勝に仕えたという[13]。
脚注
- 渡辺 1929, p.22
- 彦右衛門。『尾張群書系図部集』によると蜂須賀正永(広秋、正氏、広昭、彦助、大和守)の子。諱は広俊、正則とも。兄の鶴松は夭折し、弟に正秋(亀法師丸、小六、正昭、正種)。しかし『蜂須賀家記』では兄が広俊で、兄の死後に還俗した亀法師丸が正昭となり、正利の父であるとしていて、混乱がみられる。
- 小太郎、彦助。
- 僧。高野山光明院12世であるという。
- 岡田 1876, p.205
- 法名を高岸宗養とし、天正17年5月11日(1589年6月16日)没[5]。
- 岡田 1876, p.206
- 法名を元秀慶本とし、永禄12年10月20日(1569年11月26日)没[7]。
- 享禄4年11月7日(1531年12月15日)に亡くなった[1]。
- 甚右衛門。僧となった。法名を常林禅定門。『尾張群書系図部集』では正勝の異母兄とする。三男は『蜂須賀家記』による。弘治2年9月7日(1556年10月10日)に没した。
- 岡田 1876, p.207
- 織田信秀の本拠地勝幡城から東に2kmに位置する。
- 『太閤記』で少年時代の秀吉が「小六おじさん」と呼ぶ人物は、定説とされた正勝ではなく正利のことを指す、と小和田は主張している。
参考文献
- 岡田鴨里国立国会図書館デジタルコレクション 『蜂須賀家記』伊吹直亮、1876年 。
- 渡辺世祐『蜂須賀小六正勝』雄山閣、1929年、7-8, 21-22頁。
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