藤原純友
藤原 純友(ふじわら の すみとも)は、平安時代中期の貴族・海賊。藤原北家、右大弁藤原遠経の孫。大宰少弐・藤原良範の三男[2]。弟に藤原純乗がいる。官位は従五位下[2][注釈 1]・伊予掾[2]。
凡例 藤原 純友 | |
---|---|
時代 | 平安時代中期 |
生誕 | 寛平5年(893年)? |
死没 | 天慶4年6月20日(941年7月17日) |
別名 | 南海の龍 |
官位 | 従五位下、伊予掾 |
氏族 | 藤原北家長良流 |
父母 | 父:藤原良範、母:不詳 |
兄弟 | 純春、純美、純友、純乗、純正、純素、純行、純業 |
妻 | 不詳 |
子 | 有信、紀年、伊王丸、真純 |
生涯
藤原氏の中で最も栄えた藤原北家の出身で大叔父には藤原基経がいるが、早くに父を失い、都での出世は望むべくもなく地方官となる[注釈 2]。
当初は父の従兄弟である伊予守・藤原元名に従って伊予掾として、瀬戸内に横行する海賊を鎮圧する側にあった。帰任後に海賊追捕宣旨を賜り、承平6年(936年)3月頃に再度伊予国に下向した。『日本紀略』承平6年6月某日条によれば、この頃海賊の頭領となり[注釈 3]、伊予(愛媛県)の日振島を根城として千艘以上の船を操って周辺の海域を荒らし、やがて瀬戸内海全域に勢力を伸ばしたとされているが、実際には承平6年の時点では純友は海賊を追捕する側であったとするのが近年の研究動向である。
関東で平将門が乱を起こした頃とほぼ時を同じくして瀬戸内の海賊を率いて乱を起こし、藤原純友の勢力は畿内に進出、天慶2年(939年)には純友は部下・藤原文元に摂津国須岐駅において備前国・播磨国の介(備前介・藤原子高、播磨介・島田惟幹)を襲撃させ、これを捕らえた。翌天慶3年(940年)には、2月に淡路国・8月には伊予国と讃岐国の国府を襲撃し、略奪を行った。瀬戸内海を転戦し、天慶4年(941年)5月上旬には大宰府を陥落させた。
朝廷は純友追討のために追捕使長官・小野好古、次官・源経基、主典・藤原慶幸、大蔵春実による兵を差し向け、博多湾の戦いで、純友の船団は追捕使の軍により壊滅させられた。純友は子・重太丸と伊予へ逃れたが、同天慶4年6月に今日の宇和島で殺されたとも、捕らえられて獄中で没したともいわれているが、資料が乏しく定かではない[注釈 4]。『師守記』によれば、6月20日に伊予国警固使の橘遠保に斬られたという。また、それらは国府側の
将門の乱がわずか2か月で平定されたのに対し、純友の乱は2年に及んだ。また、純友の合戦の様子は『純友追討記』として、追補使により政府への報告がなされたとされ、一部が『扶桑略記』に引用されている。
逸話
純友が反乱を起こした当時、関東では平将門が反乱を起こしていたが、将門と純友は共同謀議をしており、将門と共に京都を制圧した時には関白になる計画を描いていたという(『大鏡』)[3]。ただしこの謀議は比叡山で行われたとされ、将門と純友が比叡山から平安京を見下ろして「将門は王孫なれば帝王となるべし[3]、純友は藤原氏なれば関白とならむと約し」とあるなど、当時の将門や純友は、関東と伊予から動いていたかいないかは定かではないが、その繋がりについては検証すべきものである。[4]
系譜
純友が藤原の血統であることには異説がある。それによると純友は伊予の豪族越智氏の一族で、今治の高橋郷の高橋友久の子であったが、良範が伊予の国司として赴任したおりに養子になり、藤原姓を名乗ったというものである。しかしこれは歴史的にはあり得ないとして否定されている[7]。
後世、有馬氏・大村氏らは藤原純友の孫・藤原直澄の子孫と称した[注釈 5]ものの、藤原直澄とは、本来は肥前国藤津荘の庄司で平正盛に討たれた平清澄の子・平直澄であり[注釈 6]、先祖の汚名を雪ぐために藤原純友の末裔であると僭称したとされる[7]。筑後国の蒲池氏もまた藤原純友の後裔とする伝承があるが[8]、繋がりがあるのは橘公頼とされる。
脚注
注釈
- 実際に、天慶3年(940年)2月、反乱を起こした純友を懐柔するために、朝廷は純友を従五位下に叙したとされる。
- もっとも赴任先である伊予国は当時屈指の経済的な豊かさであり、掾とは言え、受領としては出世コースであるとする見方もある。また、純友の属する藤原長良系は地方官歴任後に都に戻って公卿にまで昇った人物も複数存在している事実もあり、実際には出世の可能性も存在した比較的恵まれていた身分であったと考える見方もある。
- ただし、この過程については、土着する過程で自らが海賊化したとする説と、伊予に土着後に後任の伊予守である紀淑人に協力して海賊の帰順にあたっているうちにその信望を集めたものの紀淑人への不満から彼らに推されて指導者となったとする説がある。
- 『日本紀略』では橘遠保が純友を殺害したとする。
- 『姓氏家系大辞典』では肥前国の豪族である大村直の後裔とする。
- 『中秋記』、『中右記』、『百錬抄』などには元永2年(1119年)の出来事として関連する記事が見える。
出典
- 洞院 1903, p. 76.
- 『尊卑分脈』[1]
- 宇神 2011, p. 13.
- 宇神 2011, p. 14.
- 『有馬系図』
- 『大村系図』
- 亀井英希「藤原純友伝承に関する一考察」『研究紀要』第6巻、愛媛県歴史文化博物館、2001年3月、1-13頁、doi:10.24484/sitereports.119186-29551、CRID 1390573407598617984。
- 『姓氏家系大辞典』『蒲池物語』『筑後国史』。
参考文献
藤原純友が登場する主な作品
関連項目
外部リンク
- 藤原純友(築土神社 人物由縁)
- 『藤原純友』 - コトバンク