藤原仲麻呂

藤原 仲麻呂(ふじわら の なかまろ)は、奈良時代公卿。名は仲麿[1][2]または仲丸[1]とも記される。淳仁朝以降は改姓改名し、藤原恵美押勝(ふじわらえみ の おしかつ)。左大臣藤原武智麻呂の次男。官位正一位太師恵美大臣とも呼ばれた。

 
凡例
藤原 仲麻呂
時代 奈良時代
生誕 慶雲3年(706年
死没 天平宝字8年旧9月18日764年10月17日
改名 仲麻呂→恵美押勝
別名 仲麿、仲丸、恵美大臣
官位 正一位太師(太政大臣)
主君 聖武天皇孝謙天皇淳仁天皇
氏族 藤原南家
父母 父:藤原武智麻呂、母:貞媛(阿倍御主人の孫女)
兄弟 豊成仲麻呂乙麻呂巨勢麻呂、南殿
藤原宇比良古藤原房前の娘)、大伴犬養の娘、
陽侯女王新田部親王の王女)、奈賀岐娘(紀麻呂の娘)
真従真先訓儒麻呂朝狩小湯麻呂刷雄薩雄辛加知執棹、真文、徳一、児従、東子、額

経歴

文武天皇末年の慶雲3年(706年)に藤原南家の始祖である藤原武智麻呂の次男として生まれる。生まれつき聡明鋭敏であり、大抵の書物は読破していた。また、大納言阿倍宿奈麻呂算術を学び、優れた学才を示した[3]内舎人から大学少允を経て、天平6年(734年)従五位下叙爵

藤原四兄弟の死と橘諸兄の台頭

天平9年(737年)天然痘の流行により、光明皇后の後ろ盾として政権を担っていた父の武智麻呂と叔父の藤原房前藤原宇合藤原麻呂のいわゆる藤原四兄弟が相次いで病死し、藤原氏の勢力は大きく後退する。替わって光明皇后の異父兄で疫病禍をかわした橘諸兄参議から一挙に大納言次いで右大臣に昇進して国政を担うようになった。

兄たちを次々と失った光明皇后は、その不安から聖武天皇へ大仏建立を強く勧めたとされる。また、天平12年(740年)に聖武天皇が河内国大県郡智識寺を訪ね、その寺の盧舎那仏から大いに影響を受けたという。この智識寺は、名が表すとおり智識(同信集団)の勧進銭によって建立された寺で、それは東大寺成立の過程にも反映された[4]

橘諸兄との対立

天平11年(739年)従五位上、天平12年(740年正五位上と橘諸兄政権下で仲麻呂は順調に昇進し、天平13年(741年従四位下・民部卿に叙任される。また同年4月に河内国摂津国が帰属を争っている川のの調査を[5]、同年9月には恭仁京に派遣されて人民への宅地の分配を行っている[6]

天平15年(743年)従四位上参議に叙任され公卿に列する。天平18年(746年)式部卿に転じる。式部卿は官吏の選叙と考課を握る官職であり、仲麻呂は大幅な人事異動を行って諸兄の勢力を削ぎ、自らの派閥を形成した[7]。仲麻呂は叔母にあたる光明皇后の信任が厚く、従兄妹で皇太子だった阿倍内親王(後の孝謙天皇)とも良好な関係にあった。

天平16年(744年)閏1月11日、当時17歳の聖武天皇の第二皇子安積親王難波宮行啓の途上、桜井頓宮で脚気になり恭仁京に引き返すが、わずか2日後に薨去した[8]。その死があまりにも急で不自然なところもあったことから、藤原仲麻呂に毒殺されたという説も根強い[9]。こののち仲麻呂は天平18年(746年)従三位、天平20年(748年)には正三位と急速な昇叙を続け、光明皇后の後ろ盾のもとでその権勢は左大臣・橘諸兄と拮抗するようになった[10]

孝謙天皇即位と大納言就任

田村第跡 推定地

天平勝宝元年(749年)7月に聖武天皇が譲位して阿倍内親王が即位(孝謙天皇)すると、仲麻呂は参議から中納言を経ずに直接大納言に昇進。次いで、光明皇后のために設けられた紫微中台の令(長官)と、中衛大将を兼ねた。光明皇后と孝謙天皇の信任を背景に仲麻呂は政権と軍権の両方を掌握して左大臣橘諸兄の権力を圧倒し、事実上の「光明=仲麻呂体制」が確立された[11]

同年10月に東大寺盧舎那仏像 の鋳造が完了する[12]。藤原仲麻呂自身も仏教に高い関心を示していたといわれ、仏教信仰に篤い光明皇太后を支援した[13]。天平勝宝4年(752年大仏開眼供養会が盛大に催され、その夜女帝は内裏に帰らず仲麻呂の私邸である田村第におもむき、しばらくここを在所とした[14]。孝謙天皇は後年も平城京の修理を理由として田村第に長逗留したことから、この邸宅は「田村宮」とも呼ばれた。

この頃の太政官では仲麻呂の上位に外伯父の橘諸兄と実兄の藤原豊成が左右の大臣として並んでいた。仲麻呂は豊成を中傷しようと機会を窺っていたが、仲麻呂をよく知る豊成は乗じる隙を与えなかった[15]。その一方で天平勝宝7歳(755年)には諸兄が朝廷を誹謗したとの密告があり、聖武上皇はこれを許したものの諸兄は恥じて翌天平勝宝8歳(756年)に左大臣を辞官した[16]

同年聖武上皇が崩御遺詔により道祖王皇太子に立てられた[17]。しかし、翌天平勝宝9歳(757年)3月に道祖王は中の不徳な行動が問題視されて皇太子を廃され[18]、仲麻呂の意中であった大炊王(後の淳仁天皇)が立太子される[19]。この王は、仲麻呂の早世した長男・真従の未亡人(粟田諸姉)を妃としており、かねてより仲麻呂の私邸である田村第に身を寄せる身の上であった[20]。5月には祖父の不比等が着手した養老律令を施行するとともに、仲麻呂は紫微内相に任ぜられ大臣に准じる地位に就いた。

橘奈良麻呂の乱

こうした仲麻呂の台頭に不満を持ったのが橘諸兄の子の奈良麻呂だった。皇太子廃立をうけて奈良麻呂は大伴古麻呂らとともに、仲麻呂を殺害して天武天皇の孫にあたる皇族を擁立する反乱を企てるが、はやくも同年6月に上道斐太都らの密告により計画が露見。奈良麻呂の一味は捕らえられ、443人が処罰される大事件となった。奈良麻呂と古麻呂をはじめ、新帝擁立の候補者に名が挙がっていた道祖王や黄文王も捕縛され拷問を受けて獄死、反乱に関与したとして右大臣藤原豊成も左遷された(橘奈良麻呂の乱)。これによって仲麻呂は太政官の首座に就き、名実ともに最高権力者となった[21]

淳仁天皇の時代

天平宝字2年(758年)8月に孝謙天皇が譲位して大炊王が即位(淳仁天皇)する。淳仁天皇を擁立した仲麻呂は独自な政治を行うようになり、中男正丁の年齢繰上げや雑徭の半減、問民苦使平準署の創設など徳治政策を進めるとともに、官名を唐風に改称させる唐風政策を推進した。そして仲麻呂自身は太保(右大臣)に任じられる。さらに、仲麻呂の一家は姓に恵美の二字を付け加えられるとともに、仲麻呂は押勝の名を賜与された。また鋳銭出挙の権利も与えられ、藤原恵美家には私印を用いることが許された[22]

新羅征討計画

この年安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされると、仲麻呂は大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じる。天平宝字3年(759年)には新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじめさせた。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられるが、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わる[23]

光明皇太后の崩御

天平宝字4年(760年)仲麻呂は皇族以外で初めて太師(太政大臣)に任じられるが、同年光明皇太后が崩御。皇太后の信任厚かった仲麻呂にとってこれが大きな打撃となる(ただし、皇太后の健康悪化を知っていた仲麻呂が自らの地位安定のために皇太后崩御に先んじて太師任命を受けたとする解釈もある。実際に太師任命は孝謙上皇が淳仁天皇臨席の場で宣命の形で発表し、後から淳仁天皇から正式な手続で任命されるという二重の手続が取られて、上皇・天皇から信を受けた形を取っている[24])。さらにこの年には弟の乙麻呂も失っている。

天平宝字5年(761年)淳仁天皇と孝謙上皇を近江国保良宮に行幸させ、唐の制度にならって保良宮を「北宮」とした。

天平宝字6年(762年)1月、仲麻呂は子の真先氷上塩焼とともに参議に任じていたが、6月には尚蔵尚侍を務めて仲麻呂と上皇の間のパイプ役になっていた正室の藤原袁比良を失い、続く7月と9月には仲麻呂の腹心から議政官になった参議紀飯麻呂と中納言石川年足も失って、仲麻呂の政治的基盤は弱体化した。そこで仲麻呂は12月には2子訓儒麻呂朝狩と女婿の藤原弟貞を石川年足の弟の石川豊成とともに参議に任じ、同時に白壁王(後の光仁天皇)を参議を経ずに中納言に抜擢、中臣清麻呂も参議に任じて政権の補強を図った。しかし1年のうちに近親者4名を参議に任じた仲麻呂の人事はくすぶる反対派に油を注ぐ結果となっていく。

道鏡

一方、この頃病になった孝謙上皇は自分を看病した道鏡を側に置いて寵愛するようになった。仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙上皇に道鏡との関係を諌めさせた。これが孝謙上皇を激怒させ、上皇は出家してになるとともに天皇から大事・賞罰の大権を奪うことを宣言するが、これが実現したかどうかについては研究者のあいだでも見解が分かれる。孝謙上皇の道鏡への寵愛は更に深まり、天平宝字7年(763年)には道鏡を少僧都とした。

藤原仲麻呂の乱

孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂との対立は深まり危機感を抱いた仲麻呂は、天平宝字8年(764年)自らを都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に任じ、さらなる軍事力の掌握を企てる。しかし謀反の密告があり、上皇方に先手を打たれて天皇のもとにあるべき御璽駅鈴を奪われると、仲麻呂は平城京を脱出する。子の辛加知国司を務めていた越前国に入り再起を図るが、官軍に阻まれて失敗。仲麻呂は近江国高島郡(現:滋賀県高島市)の三尾で最後の抵抗をするが官軍に攻められて敗北する。敗れた仲麻呂は妻子と琵琶湖に舟をだしてなおも逃れようとするが、官兵石村石楯に捕らえられて諸共斬首された。享年59。僅か1週間前には完全に軍権を把握して意気揚々たる状態だったが、将棋倒しのように不運な敗戦と誤算が相次ぎ急転直下の滅亡となった。

死後

乱によって仲麻呂の一族はことごとく殺されたが、六男の刷雄は幼少時より仏道修行に励んでいたとして死刑を免れ、隠岐国への流罪となり、のちに赦されて桓武天皇の時代に大学頭陰陽頭を歴任している。平安時代初期に最澄空海と論争した法相宗の高僧徳一は、『尊卑分脈』では仲麻呂の末子とされている。一方で『尊卑分脈』は一説として刷雄と徳一が同一人物であるという説を掲載している。徳一は入唐したとされているため、遣唐使で唐に渡った経験がある刷雄と後世になって同一視されたものと見られている[25]。また『尊卑分脈』では刷雄と薩雄の子孫が数代掲載されている[26]

神護景雲2年(768年)5月、その越前国の田地200町が、娘婿の藤原御楯の田地100町とともに西隆寺へ喜捨された[27]

仲麻呂の滅亡によって彼が推進してきた政策は、官名の唐風改称こそは廃されて旧制に戻されたものの、養老律令はじめとする先進的な政策の多くは一部修正を加えられながらもその後の政権によって継続されていくことになる。

官歴

注記のないものは『続日本紀』による。

系譜

仲麻呂の子については諸書で異同が多く、最も多く9人の男子を掲載している『尊卑分脈』や『続日本紀』には長男の真従が掲載されていない[35]

出典

  • 岸俊男『藤原仲麻呂』 吉川弘文館、1969年
  • 木本好信『藤原仲麻呂政権の基礎的考察』 高科書店、1993年
  • 木本好信『万葉時代の人びとと政争』 おうふう、2008年
  • 木本好信『藤原仲麻呂』 ミネルヴァ書房、2011年
  • 木本好信『藤原仲麻呂政権とその時代』 岩田書院、2013年
  • 木本, 好信「「光明・仲麻呂政治体制」再論 -その異形な政治体制」(pdf link)『Koshien Junior College bulletin of general education』第6巻、2011年、40-29頁。
  • 宇治谷孟監修『続日本紀』(上中巻) 講談社講談社学術文庫〉、1992年
  • 公卿補任』第一篇  吉川弘文館、1982年
  • 尊卑分脈』第二篇  吉川弘文館、1987年
  • 仁藤敦史『藤原仲麻呂-古代王権を動かした異能の政治家』中央公論新社〈中公新書 2648〉、2021年6月21日。ASIN B09FL5FSV3ISBN 978-4121026484。

補注

  1. 尊卑分脈
  2. 公卿補任
  3. 『続日本紀』天平宝字8年9月18日条
  4. 五来[1975: 58-59]
  5. 『続日本紀』天平13年4月22日条
  6. 『続日本紀』天平13年9月12日条
  7. 木本 2011, 「光明・仲麻呂政治体制」再論、40p
  8. 『続日本紀』天平16年閏正月13日条
  9. 須田, 春子 (Suda, Haruko)「律令制女性史研究」(snippet)、千代田書房、1978年“十七歳で急死した安積王に仲麻呂の毒殺説がある”(筑波大学文学博士学位論文・昭和58年3月25日授与(乙第122号))
  10. 木本 2011, 「光明・仲麻呂政治体制」再論、39p
  11. 木本 2011, 「光明・仲麻呂政治体制」再論、38p
  12. 『続日本紀』天平勝宝元年10月24日条
  13. 岸俊男『藤原仲麻呂』134頁。
  14. 『続日本紀』天平勝宝4年4月9日
  15. 『続日本紀』天平神護元年11月27日条
  16. 『続日本紀』天平勝宝8歳2月2日条
  17. 『続日本紀』天平勝宝8歳5月2日条
  18. 『続日本紀』天平勝宝9歳3月29日条
  19. 『続日本紀』天平宝字元年4月4日条
  20. 『続日本紀』淳仁天皇即位前記
  21. 木本 2011, 「光明・仲麻呂政治体制」再論、30p
  22. 『続日本紀』天平宝字2年8月25日条
  23. 岸俊男『藤原仲麻呂』261-292頁。
  24. 鈴木琢郎「奈良時代の大臣任官と宣命」(初出:『日本歴史』675号(2004年)/所収:鈴木『日本古代の大臣制』(塙書房、2018年) ISBN 978-4-8273-1298-0
  25. 仁藤敦史 2021, p. 76-77.
  26. 『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』 第3巻 (故実叢書 ; 第3輯) 吉川弘文館 (1903-1904)、5p
  27. 『続日本紀』神護景雲2年5月28日条
  28. 『公卿補任』では3月1日
  29. 『公卿補任』では4月15日
  30. 『公卿補任』では3月3日
  31. 『公卿補任』では7月12日
  32. 『公卿補任』では1月7日
  33. 『公卿補任』では5月19日
  34. 『公卿補任』では1月11日
  35. 仁藤敦史 2021, p. 74-77.
  36. ただし母は陽侯女王という説もある

関連作品

関連項目

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