脇往還
概要
脇街道(わきかいどう)[1]、また単に脇道(わきみち)[2]ともいった。各藩の大名に管轄を任せていたため五街道ほど整備は行き届かなかったが、諸藩の経済や文化の発展に大きく寄与した[3]。のちに五街道とともに主要幹線道路として幕府から重要視されたため江戸幕府直轄となり、万治2年(1659年)に道中奉行の管轄にあった[4]。宿駅・一里塚・並木などが整備された所も多い[注釈 1]。
脇往還(脇街道)は五街道とともに日本全国の道路交通ネットワークを形成するものもあるが、そのどれを主要街道にするかは研究者の間で見解が異なり、一定の基準がない[6]。全国的な幹線街道を形成する脇往還は、松前道(松前街道)、羽州街道、佐渡路、北国路(北国街道)、伊勢路、中国路(山陽道/西国街道/中国街道)、長崎路(長崎街道)などを含めて、延長約5000 - 6500キロメートル (km) あったとされ、さらに地域的な小さな脇街道も含めると1万2000 - 1万5000 kmにも達する道路網を形成した[3][6]。
主な脇往還
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
This article is issued from Wikipedia. The text is licensed under Creative Commons - Attribution - Sharealike. Additional terms may apply for the media files.