第六艦隊 (日本海軍)
第六艦隊(だいろくかんたい)は旧日本海軍の艦隊の一つ。全期間を通して潜水艦のみで構成されていた艦隊である。潜水艦部隊の一元運用を図る為に各艦隊に分散配置されていた潜水戦隊を統合して1940年11月15日に編制された。開戦当初は東太平洋、インド洋、オーストラリア方面といった遠方海域における偵察活動と漸減邀撃作戦への従事が想定されていた。
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概要
太平洋戦争開戦時はハワイ方面の偵察、特殊潜航艇による真珠湾突入、東太平洋での通商破壊、オーストラリア方面の機雷敷設に従事した。しかし真珠湾攻撃の成功により、主目的であった漸減邀撃の必要性が薄れ、オーストラリア東沖やインド洋での通商破壊に重きを置くようになる。シドニーおよびディエゴ・スアレスへの特殊潜航艇突入、真珠湾爆撃を敢行した二式飛行艇への洋上給油活動など、潜水艦の特性を活かした特殊任務にも従事している。
ペナン島を拠点として継続していたインド洋方面の通商破壊活動にはドイツ潜水艦部隊も加わり、一定の成果を挙げたが、大本営では必要性を認めず、旧態依然とした漸減邀撃作戦に潜水艦を用いる方針を変えなかった。
ソロモン諸島の攻防戦に際して、連合軍基地があるエスピリッツサント島やニューカレドニア島への偵察任務に従事したが、厳重な警戒を敷かれて戦没艦が続出した。駆逐艦による「ネズミ輸送」も困難になった末期には、潜水艦による「モグラ輸送」に借り出され、被害が続出している。やがてソロモン諸島から撤退し、クェゼリン環礁を拠点として内南洋の警戒を担当した。しかしこの頃には、連合軍はハンターキラー戦術の採用やソナーの改良、ヘッジホッグの開発などの対潜技術を確立しており、返り討ちになる艦が続出した。1944年2月にクェゼリン環礁が陥落し、拠点を失った艦隊はいったん内地へ帰還した。
サイパン島を巡る地上戦に備え、島に残留する提督たちを救出するべく、サイパンに残留した高木武雄長官の意志を無視する形で救出作戦に借り出されたが、到達するまでに戦没する艦が続出した。事態を知った高木長官は救出作戦の中止を訴え、他の提督と同様に戦死した。
マリアナ沖海戦・レイテ沖海戦に際して、偵察部隊として派遣されたが、無線通信の傍受や哨戒線の看破などによって返り討ちに遭い、最前線の邀撃部隊としての任務は果たせなくなった。
1944年11月8日より、人間魚雷「回天」の実戦投入が始まり、回天母艦として潜水艦を運用することになった。以後、終戦までに28回出撃している。
ウルシー環礁爆撃を目指して出撃した伊400・伊401は、終戦の詔勅を受けて引き返し、9月2日に米軍の監視下のもと横須賀港に帰還し、第六艦隊の全行動を終了した。終戦時まで攻撃に徹した唯一の艦艇部隊である。
編制
- ※潜水艦名は正式には、例えば「伊号第一潜水艦」と表記するが本稿では省略表記し、アラビア数字も使用する。
- ※伊21~伊24(機雷潜型)は、巡潜型(伊1以降)の量産に伴い番号が重複するため、1938年(昭和13年)6月1日に改名、艦番に100を加えた。
- ※伊51~伊75(海大型)は、巡潜型の更なる量産に伴い番号が重複するため、1942年(昭和17年)5月20日に改称、艦番に100を加えた。
- なお、伊176~伊185(海大7型)は、当初より100代で竣工した。
1940年11月15日、新編時の編制
1941年12月10日、太平洋戦争開戦時の編制
1942年7月14日、ミッドウェー海戦後の編制
歴代司令長官
歴代参謀長
昭和14年度海軍小演習
昭和14年度の海軍小演習で第六艦隊が臨時に編成された。編制ではないため艦隊司令長官は親補職ではない。
- 第六艦隊
(注)以下全て昭和14年7月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 第352号による。