種部儀康

種部 儀康(たねべ のりやす、1938年1月21日 - )は、鳥取県倉吉市出身の元プロ野球選手投手)・コーチ解説者。妻は宮田征典読売ジャイアンツ同期入団)の姉・鈴子。孫はシンガーソングライターグラビアアイドル宮田みほ[1]

種部 儀康
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 鳥取県倉吉市
生年月日 (1938-01-21) 1938年1月21日(85歳)
身長
体重
175 cm
66 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1962年
初出場 1964年
最終出場 1971年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 南海ホークス (1972)

来歴・人物

上灘小から倉吉東中を経て入学した倉吉農業高ではエースとして活躍したが、同年次に米子東高義原武敏境高米田哲也といった好投手がおり、甲子園には出場できなかった。高校卒業後は1957年米子鉄道管理局へ入社し、改札切符切りなどの業務に従事。鉄道関係の略号などに詳しくなったほか、レールの上を走る汽車や貨車の車種を当てる特技も身に付けた。1961年にはクラレ岡山の補強選手として都市対抗に出場し、北海道拓殖銀行との1回戦に登板したが、敗戦投手となっている。1962年読売ジャイアンツへ入団。2年間は一軍登板無しに終わったが、2年目の1963年には第1回ジュニアオールスターに出場して勝利投手となったほか、二軍で9勝3敗・防御率1.50でイースタン・リーグ最優秀投手に輝いている。3年目の1964年には一軍に上がり、同年6月に上手投げから変則的なサイドスローに転向。スライダー、クセのあるシュートやカーブを武器に、主にリリーフとして起用される。1965年には自己最多となる33試合に登板して4勝を記録し、南海との対戦となった同年の日本シリーズ1966年の日本シリーズではそれぞれ1試合に登板。1968年は防御率6.00に終わり、1969年には登板が無く、オフに金銭トレードで南海ホークスへ移籍。ここでも主に中継ぎや抑えとして起用され、野村克也選手兼任監督の再生術により復活し、1970年は5勝を挙げる。1971年も22試合に登板するが、同年限りで現役を引退。

引退後は南海で1年だけ二軍投手コーチ(1972年)、南海退団後の1975年には群馬テレビプロ野球オープン戦中継」解説者を務めた[2]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1964 巨人 24000010----1.00022758.24661102310016162.440.97
1965 33100041----.80022661.13541611290017172.510.83
1966 20000020----1.00011733.11536101900430.820.63
1967 19000000--------13534.0295800210013133.441.09
1968 9000011----.5007417.220460090012126.001.47
1970 南海 28000051----.83325759.169121612291040304.581.43
1971 22100001----.00018244.04441400170014132.661.32
通算:7年 1552000134----.7651218308.1258387735155101161043.041.09

年度別打撃成績

















































O
P
S
1964 巨人 2713131100011000000061.077.077.077.154
1965 3311110000000000000060.000.000.000.000
1966 20750100010002000020.200.200.200.400
1967 19430000000001000010.000.000.000.000
1968 9220000000000000020.000.000.000.000
1970 南海 311090100010001000060.111.111.111.222
1971 22430000000001000000.000.000.000.000
通算:7年 161514613000310050000231.065.065.065.130

背番号

  • 29 (1962年 - 1968年)
  • 45 (1969年)
  • 16 (1970年 - 1971年)
  • 74 (1972年)

脚注

  1. 宮田みほのツイート
  2. 上毛新聞1975年3月27日、各12ページ、テレビ欄

関連項目

This article is issued from Wikipedia. The text is licensed under Creative Commons - Attribution - Sharealike. Additional terms may apply for the media files.