福定町
福定町 | |
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福定町 福定町の位置 | |
北緯35度31分38秒 東経133度14分00秒 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 鳥取県 |
市町村 | 境港市 |
人口 | |
• 合計 | 872人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
684-0042[2] |
市外局番 | 0859[3] |
ナンバープレート | 鳥取 |
歴史
尼子経久の末裔とされる又右ェ門秀久がこの地に来住し開拓に従事する。秀久は尼子の姓が発覚するのを恐れてやがて“佐近”と名乗り、後また“佐古”と改めた。[5]
年表
庄屋一覧
苗字(株)
幕末期の庄屋佐近史兵衛忠仁は、天保14年(1843年)に『福定村中惣系図略記』というものを書き残している[8]。それによれば、福定村の住民はおよそ5つの株から分かれて分家をつくっているという[8]。佐古株、足立株、川田株、竹安株、安倍株、佐々木株等がある。足立家、安倍家はもと中野村出身とされている。[9]
- 佐古株
- 足立株
- 川田株
- 川田氏(元祖: 與右ェ門(安倍与右ェ門二男))
- 竹安株
- 竹安氏(中興祖: 三郎右ェ門、小灘氏元祖: 伝蔵、洋谷氏元祖: 庄兵衛、松本氏元祖: 周兵衛、橋本氏元祖: 幸吉)
- 安倍株
- 佐々木株
- 生住家(元祖: 嘉平治)
- 杉本家(元祖: 仙宝院)
- 系譜
- 佐近家(佐古家)
尼子経久 …… 又右ェ門秀久 — 又五郎秀高 — 長兵衛 — 長兵衛
- 改正苗字“佐近” 元祖佐古又右ェ門正義は本家の4代目佐古長兵衛の二男
又右ェ門正義 — 平吉正信 — 弥三八正知 — 四兵衛正忠 — 四兵衛忠孝 — 林兵衛忠義 — 史兵衛忠仁 — 廉兵衛忠政 — 慶基 — 正慶 — 滋
福定児童館(旧福定会館)
昭和37年(1962年)から昭和38年(1963年)にかけての豪雪により、旧福定会館は倒壊という悲運に見舞われ、福定町は討議の場を失ってしまった。昭和39年(1964年)再建の機運が高まり自治会総会で協議がなされ、次の諸氏を委員、相談役に選出し、再建の大事業に着手した。
- 委員 - 安倍由一郎、安倍敬市、足立誠、生住正信、石橋末夫、大田盛、岡崎伊太郎、景山敬、川田俊弘、北山虎栄、北山茂、小灘善造、高砂宗市、田口卓三、洋谷一郎、松本美恵子、宮脇まさ子
- 相談役 - 足立実、佐近正慶、佐々木勝栄
委員会は生住正信委員長、川田俊弘事務局長を選出し一致団結して涙ぐましい努力によって再建の難事業に当った。
昭和40年(1965年)7月25日、竣工。竣工後は大衆討議の場としてその機能を発揮し、現在の福定町会館が市予算で完成後は、福定児童館として新しい児童育成の場となっている。
施設
- 福定神社
- 福定町会館
資料
旧家・長兵衛
- 宇多天皇ノ後胤 佐々木源三秀義五男、五郎左ェ門義清ノ裔(子孫)[19]、尼子伊予守経久ノ流ニシテ又右ェ門秀久ト云シガ天文ノ後此ノ地ニ来リ隠居シテ田畑開墾セシ処其ノ姓ノ顕ルヲイミテ佐々木氏ノ子孫ト云ヘル意ニシテ佐近氏ト改ム其ノ子又五郎秀高又改メテ佐古ト号シ専ラ力ヲ農耕ニ励ミ爾来 村長相勤メ七代権右衛門迄相伝ワリ当主長兵衛ニ至テ十代ナリ近世マデ系譜古文書等多ク所蔵仕リ候、いつとなく紛失仕リ候 今有ル所ノ系図ハ秀久ヨリ後ノ事記シテ御座候 佐古文書品々取リ失ヒ候得共 右言伝ニ申候、就中、又五郎ノ男長兵衛、其ノ子長兵衛家続仕同又右ェ門 別家仕リ其流格別多シ同七兵ェ 八郎兵衛等別家仕候 今村中ニ佐古ト申スハ右ノ裔ニ御座候 右ノ通リ取調ベ書上仕リ候処相違無御座候
- 口会見郡福定村
- 文久弐年戌六月
- 渡辺彦兵衛殿
参考文献
- 『境港市史』
- 『福定町誌まがりまつ』(企画編集-福定自治会1990年)
関連項目
脚注
- “令和4年度月別住民基本台帳登録数”. 境港市 (2021年7月31日). 2022年8月15日閲覧。
- “郵便番号”. 日本郵便. 2022年8月15日閲覧。
- “市外局番の一覧”. 総務省. 2022年8月15日閲覧。
- 『角川日本地名大辞典 31鳥取県』659頁
- 『福定町誌まがりまつ』7頁に「尼子秀久は福定にのがれて来て住み着いた。佐古の元祖である佐古又右ェ門秀久がそれである。秀久は尼子の姓が発覚するのを恐れて、やがて“佐近”と名乗り、後また“佐古”と改めた。尼子は佐々木氏であるからである。秀久が福定に来たのは天正の後というから、天正の終り頃(1590)であったと考えられる。」とある
- 『福定町誌まがりまつ』189頁
- 『福定町誌まがりまつ』190頁
- 『福定町誌まがりまつ』88頁
- 『福定町誌まがりまつ』 87-98
- 『福定町誌まがりまつ』3頁
- “境港市立小中学校児童、生徒の学校指定に関する規則”. 境港市. 2022年8月15日閲覧。
- 『福定町誌まがりまつ』 153-154頁
- 『福定町誌まがりまつ』 149頁
- 『福定町誌まがりまつ』 140頁
- 『福定町誌まがりまつ』 139頁
- 『福定町誌まがりまつ』 147頁
- 『福定町誌まがりまつ』 146頁
- 『福定町誌まがりまつ』 157頁
- 史実では、尼子氏は佐々木五郎義清の子孫ではなく、その兄にあたる佐々木太郎定綱の子孫で京極氏の支流にあたる。
外部リンク
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