竹中氏陣屋
竹中氏陣屋(たけなかしじんや)は、岐阜県不破郡垂井町(美濃国不破郡岩手)にあった江戸時代の陣屋。安土桃山時代には岩手城と呼ばれていたが、江戸時代に竹中氏が旗本身分に留まったため、城は陣屋と呼ばれるようになった。別名、竹中陣屋、岩手陣屋。
(岐阜県) | |
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竹中氏陣屋櫓門 | |
別名 | 岩手城、竹中陣屋、岩手陣屋 |
城郭構造 | 陣屋 |
天守構造 | なし |
築城主 | 竹中重門 |
築城年 | 1588年 |
主な城主 | 竹中氏 |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 現存櫓門・石垣・堀 |
指定文化財 | 岐阜県指定史跡 |
羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍師(参謀)であった竹中重治の子である竹中重門が築いたものであるが、敷地を囲む大規模な堀(水堀など)と石垣などがあり、陣屋というより小型の城と言ったほうが正しい。
元々、竹中氏の居城は堅固な山城である菩提山城(岩手山城)であったが、平時には不便なことから、麓に岩手城を築いたという。
現在その跡地は岩手小学校と民有地となっているが、白壁の櫓門、水堀の一部分、石垣の一部分が残っている。また入り口付近に竹中重治の像が建てられている。わかりにくいが、櫓門から北側へも道沿いの家の裏手に土塁が続いていて、岩手小学校裏、西側へと続いている。
1956年(昭和31年)に、岐阜県指定史跡となっている[1]。
竹中氏
竹中氏は平良文を祖とする鎌倉氏の一族である。竹中氏は、鎌倉景正の孫長江義景から始まる長江氏の支族岩手氏より始まるとされる。その一方、清和源氏為義流および土岐氏の頼定の子長山頼基(兄の頼遠の猶子となる)の子の岩手満頼(外山頼行)とその子の岩手頼重(光明)を祖とする説もある[2][3]。
大友氏の小庶子家に竹中氏(戸次氏庶家)があり、主家の大友家は美濃を含めた多くの国々に所領をもっていたので、その代官として豊後から広がったとされている。美濃の竹中氏もその一族末裔の一つであるという伝承もある。武士にとり名字は神聖なものであり、理由もなくいきなり新しくは作らないので、半兵衛の竹中氏は土岐流岩手氏の嫡男以外が大友流竹中氏の養子に入って継いだものかもしれない。
概要
重元流竹中氏
1588年(天正16年)、竹中重門が菩提山城の山麓に岩手城を築く。尚、築いた時期は、文禄から慶長年間の頃の説もある。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いにて、竹中重門は当初西軍につき、犬山城城主石川貞清に協力。稲葉貞通、稲葉典通、加藤貞泰、関一政らと犬山城に籠城する。しかし、井伊直政の仲立ちにより東軍に加わり、黒田長政軍として参戦する。関ヶ原の戦いは竹中氏の領土も戦場となったことなどから、徳川家康より1,000石の米を下賜され、また、所領(不破郡岩手 6,000石)を安堵された。旗本として徳川将軍家に仕え、よって岩手城は以後、岩手陣屋と呼ばれることとなる。
竹中氏は旗本交代寄合として幕末まで存続して、幕末期の当主であった竹中重固は江戸幕府陸軍奉行に任じられ、従五位下遠江守(のち丹後守)の武家官位を与えられていたが1868年(明治元年)の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍の指揮官として新政府軍と交戦したため、慶喜と共に朝敵となり、官位は剥奪された[4]。岩手陣屋も没収された。重固は慶喜が謹慎した後も戊辰戦争で旧幕府軍の一員として箱館戦争まで戦い抜き、その重固の行動の結果竹中氏は改易となり6,000石の所領は没収された[4]。
捕縛された重固は明治2年(1869年)8月15日に死一等を減じられ、福岡藩主黒田長知への永預の判決が申し渡された。しかし前当主重明に改めて300石が与えられ、竹中家の家名断絶は免れた。重固は明治4年に福岡藩から父重明預かりの身に変更されたのを経て、翌年1月に正式に罪を許された[4]。重明が一度帰農していた関係で竹中家は平民編入になっていたが、明治14年に士族への昇格が認められた[4]。
明治17年(1884年)に施行された華族令で華族が五爵制になった際に定められた『叙爵内規』の前の案である『華族令』案や『叙爵規則』案(『爵位発行順序』所収)では元交代寄合が男爵に含まれており、竹中家も男爵候補に挙げられているが、最終的な『叙爵内規』では交代寄合は対象外となったため結局竹中家は士族のままだった[4]。
竹中氏当主
系譜
- 実線は実子、点線(縦)は養子。
長江義景 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(5代略) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岩手重久 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
信忠 | 竹中重氏1 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
重元2 | 竹中重光 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
重行 | 重治(半兵衛)3 | 重矩 | 竹中重利 | 竹中重定 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
重門4 | 重義 | 重房 | 重長 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
重常5 | 重次 | 重利 | 源三郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
重高6 | 重之 | 杉原重玄 | 井上十郞兵衛 | 加藤重貞 | 重紀 | (断絶) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
重長7 | 重紀 | 竹中重栄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
重栄(元栄)8 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
元敏9 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
元儔10 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
元恭[注釈 1] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
重寛11(1)[注釈 2] | 重寛11(2)[注釈 3] | 元秋 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
重光12 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
重知13 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
重明14 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
重固[注釈 4]15 | 重時[注釈 5]16 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
系譜参考
- 日本の名字七千傑「土岐氏光定流」
- 交代寄合表御礼衆「竹中氏」 - ウェイバックマシン(2001年2月18日アーカイブ分)
- 武家家伝「竹中氏」
所在地
- 岐阜県不破郡垂井町岩手
脚注
出典
- “竹中氏陣屋跡”. 岐阜県. 2016年9月3日閲覧。
- 『美濃国諸家系譜』
- 日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 清和源氏頼光流【8】
- 松田敬之 2015, p. 426.
- 大森映子『お家相続 大名家の苦闘』(角川選書)p.104-115