田辺廃寺跡
概要
大阪府東部、大和川南岸において、明神山系から西に延びた台地上に位置する。現在は春日神社境内に所在する。1971年(昭和46年)に発掘調査が実施されている。
伽藍は薬師寺式伽藍配置で、金堂を北、塔を東西に配する。創建は白鳳期の7世紀末葉頃で、奈良時代の8世紀前半にかけて堂塔の整備が進んだが、平安時代前期頃に焼失し、金堂のみが再建されて室町時代まで継続したと推測される。一帯は百済系渡来氏族の田辺史(田辺氏)の本貫地として知られることから、田辺史一族の氏寺と推定される寺院跡になる。
歴史
遺構
寺域は東西約110メートル(1町)・南北110メートル以上(1町以上)と推定される[2]。金堂を北、塔を東西に配する薬師寺式伽藍配置であり、主要伽藍として金堂・東西両塔・南大門の遺構が認められる。遺構の詳細は次の通り。
- 金堂 - 基壇化粧は瓦積基壇[2]。
- 西塔 - 基壇化粧は瓦積基壇。三重塔と推定される[2]。
- 東塔 - 基壇化粧は塼積基壇。三重塔と推定される[2]。
- 南大門 - 東西三間・南北二間の八脚門[2]。
- 回廊 - 中門左右から出て、堂塔を囲む。推定で約55メートル(半町)四方を測る[2]。
その他の伽藍として、講堂は削平のため検出されておらず、僧房・食堂も明らかでない[2]。
寺域からの出土品としては多量の瓦等がある。創建期の瓦は金堂・西塔に多い線鋸歯文縁素弁八葉蓮華文軒丸瓦・偏行忍冬唐草文軒平瓦であり、7世紀末葉の藤原宮造営期に位置づけられる[2]。同型式の軒瓦は周辺の五十村廃寺・原山廃寺・円明廃寺のほか、香川県の仲村廃寺・開法寺でも知られ、関連性が注目される[2]。出土品の様相によれば、7世紀末葉頃から8世紀中葉頃までに金堂→西塔→東塔の順で整備されたと推測される[2]。
- 西塔跡
- 西塔心礎
- 東塔跡
- 東塔心礎
脚注
- 田辺廃寺跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- 田辺廃寺(柏原市ホームページ)。
- 田辺廃寺跡(平凡社) 1986.
- 田辺廃寺跡(柏原市ホームページ)。
参考文献
(記事執筆に使用した文献)
関連文献
(記事執筆に使用していない関連文献)
- 『田辺廃寺跡発掘調査概要 -柏原市田辺1丁目所在-(大阪府文化財調査概要 1971-2)』大阪府教育委員会、1972年。
- 『田辺廃寺跡発掘調査』春日神社、1973年。
- 「田辺廃寺」『柏原市埋蔵文化財発掘調査概報 1997年度(柏原市文化財概報1997-I)』柏原市教育委員会、1998年。 - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
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