浦野匡彦
生涯
群馬県吾妻郡の生まれ。学問を志し、故郷を出奔。上京し学問に打ち込んだ。群馬県立前橋高等学校卒業後、1932年(昭和7年)二松学舎専門学校(現二松学舎大学)第一部本科卒。その後外務省給費留学生として中国に留学しそのまま満州国外交部職員となる[1]。しかし太平洋戦争に敗北したことから命からがら日本へ引き揚げる。帰国後二松学舎大学で教鞭を執り、1955年(昭和30年)二松学舎理事、1962年(昭和37年)理事長、1975年(昭和50年)学長を歴任。1986年(昭和61年)二松学舎舎長就任。その傍ら、日本の民族精神復興に尽力した。日本遺族会副会長、英霊にこたえる会副会長を務め、首相の靖国神社公式参拝運動のリーダーの一人でもあった。1953年(昭和28年)の第3回参議院議員通常選挙において群馬県から緑風会公認で立候補したが落選した[2]。
出典
- 『上毛かるたのこころ 浦野匡彦の半生』略年譜より
- 『朝日選挙大観』579頁。
- 『上毛かるたのこころ 浦野匡彦の半生』p.215
参考文献
- 朝日新聞選挙本部編『朝日選挙大観』朝日新聞社、1997年
- 西片恭子著『上毛かるたのこころ 浦野匡彦の半生』群馬文化協会 2002年
- 人物リファレンス事典(日外アソシエーツ)
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