沢内街道
歴史
「正法年譜住山記」天文8年(1539年)条に「此年沢内の道同菩提坂の路造直す也」とあり、雫石盆地と沢内盆地を結ぶ街道として古くから利用されていた。
寛文11年(1671年)までは、盛岡城下から秋田街道の雫石から、雫石川を渡り升沢を経て、鶯宿から切留を通り、郡境の長橋峠(490m)を越えて貝沢(西和賀町)に入っていたが、同年、貝沢の萩原(大木原)が盛岡藩の官馬の牧場とされたため、雫石から南畑を経て、郡境の山伏峠越で貝沢野に入る道が開かれ本道とされたが、旧道より1里ほど迂回になるうえ、渡川所が多く通行が困難であったため、雫石町に入らず板橋(東町)から分かれて元御所を経る近道が利用されることが多く、のちにこれが正式の路線とされるようになった。
また、下鬼柳村(北上市)で奥羽街道から分かれ、岩崎村を煤孫-瀬畑-岩沢-和賀仙人峠-川尻-越中畑-白木峠を超えて山内村(秋田県横手市)へと至る東西の道も、沢内街道と呼ばれ、江戸からの諸物資が陸奥街道からこの街道を経由して秋田側に搬入されたこともあり、秋田領からは南部道と呼ばれていた、奥羽と連絡する繋要路線であった[1]。
参考資料
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