槃羅茶全
槃羅茶全(ばんらちゃぜん、バンラチャトアン、ベトナム語: Bàn La Trà Toàn、生年不詳 - 1471年4月27日)は、チャンパ王国(占城国)第15王朝の第2代国王(在位:1460年9月 - 1471年3月)。漢文史料では槃羅茶全、マラッカ王国の歴史伝承集『スジャラ・ムラユ』(マレー年代記)に見えるチャンパ王 ポーゴポオ(Po Gopoh )と同一視する意見があるが、学術的な検証はなされていない。
槃羅茶全 Bàn La Trà Toàn | |
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チャンパ王 | |
在位 | 1460年9月 - 1471年3月 |
死去 |
1471年4月27日 大越 |
配偶者 | 摩訶賁該の娘 |
摩訶賁該の姪 | |
王朝 | 第15王朝 |
生涯
先王槃羅茶悦の弟[1]。兄王の妃であった摩訶賁該の娘と姪を自らの妻とした。
『明史』には明の天順・成化年間に槃羅茶全の使者が数度朝貢した記録が残る。槃羅茶悦の死後の1460年9月に即位、明の使者である給事中の黄汝霖、行人の劉恕によって占城王に封じられた。先王槃羅茶悦の代からチャンパは明に大越黎朝の侵入を訴えており[2]、1464年4月11日の朝貢でもチャンパの使者は馴象を献じるとともに自国が大越から攻撃を受けて貢物を要求されていることを明に訴え、仲裁に入った明が両国の領域を策定した[2]。1469年の入貢当時、チャンパは大越に再び臣従を迫られ[2]、要求を拒否したチャンパが大越を攻撃した事情を『明史』は伝える。
『大越史記全書』には聖宗の詔として「暴政を布いて民を虐げ、大越の使節を侮辱し、大越が入寇したと明を欺いて助けを求めた」と記されている[1]。1470年8月に歩兵・水軍・象兵・騎兵合わせて10万余りの軍を率いて大越の化州(現在のトゥアティエン=フエ省)に侵攻した[3][4](チャンパ=大越戦争 (1471年))。聖宗自ら率いる大越軍の攻撃を受けると、槃羅茶全はカンボジアに救援を求めたが、カンボジアはこれを拒否した。現在のクアンナム近郊で大越軍に陸海両方から挟撃を受けて敗れ、王都闍槃(現在のビンディン省)に退却しようとするが沙奇で待ち伏せていた大越軍の追撃を受けた。弟の率いる軍が敗れるに至って降伏の使者を送るが、聖宗はこれに応じる一方で総攻撃の準備を整えていた。翌1471年3月18日に施耐港が落とされ、3月22日には遂に王都闍槃が陥落[3][5]、4万余り(一説には6万[6])の人間が殺害され、3万[6]余りが捕虜として連行された[7][8]。槃羅茶全は家族と共に捕らえられ[3][5][6]、大越の都昇龍へ連行中、途中の天派江(現在のゲアン省)で恐怖のために憔悴して死去する[7][9]と聖宗の命で首が死体から切り離され、体は海中に投げ入れられた[7][9]。その首は「占城元悪茶全之首」と書かれた白旗と共に船頭に吊るされて晒された[7][9]。聖宗は昇龍の太廟にその首を捕虜と共に捧げ、槃羅茶全の将であった逋持持を藩籠の大占国王に封じた。また、山岳部の華英国王、南蟠国王を封じた。占領したチャンパの旧域に広南承宣[3]と升華衛などの、いわゆる広南三司を設置した。
『スジャラ・ムラユ』(マレー年代記)には、Po Gopoh が Koci / Kuci の皇帝へ娘を嫁にやるのを拒否して Koci にほろぼされた後、マラッカに亡命した Indra Brama、アチェに亡命した Po Ling という2人の王子がいたという記述があり、 Po Ling をアチェ王国の建国者アリ・ムハヤット・シャーと同一人物とする異説が記されている。
脚注
参考文献
- 陳荊和編校『校合本 大越史記全書(中)』東京大學東洋文化研究所附属東洋學文献センター、1984年。
- チャンパ王国の遺跡と文化展実行委員会 編『海のシルクロード チャンパ王国の遺跡と文化』トヨタ財団、1994年9月。
- 石井米雄、桜井由躬雄 編『東南アジア史 I 大陸部』山川出版社〈新版 世界各国史 5〉、1999年12月20日。ISBN 978-4634413504。
- 桃木至朗「十-十五世紀ベトナム國家の「南」と「西」」『東洋史研究』第51巻第3号、京都大学東洋史研究会、1992年12月31日、464-497頁。
- 『明史』巻324、列伝212、外国5、占城
- 『大南正編列伝初集』巻三十三 外国列伝三 占城
- 『越南史略』第1巻 第3部 第14章 黎氏
- 『明実録』憲宗純皇帝実録 巻三
- George Cœdès (May 1, 1968). The Indianized States of South-East Asia. University of Hawaii Press. ISBN 978-0824803681
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