柳家小せん
代外
柳家 小せん(1861年3月〈文久元年2月〉 - 没年不明)は、落語家。
本名は田中 万吉。芸界入り以前は本所松倉町で畳屋を営んでいたという。芸風、改名歴などは不明。1889年および1892年の「名簿欄」に見え、いわゆる『文之助系図』でも2代目禽語楼小さんの門人として記載されている。
初代
初代 | |
柳派定紋「丸に花菱」 | |
本名 | 鈴木 万次郎 |
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別名 | 目くらの小せん |
生年月日 | 1883年4月3日 |
没年月日 | 1919年5月26日(36歳没) |
出身地 | 日本・東京 |
師匠 | 4代目麗々亭柳橋 3代目柳家小さん |
名跡 | 1. 麗々亭柳松(1897年 - 1900年) 2. 柳家小芝(1900年 - ?) 3. 初代柳家小せん(? - 1919年) |
活動期間 | 1897年 - 1919年 |
家族 | 2代目三遊亭萬橘(父) |
初代柳家 小せん(1883年4月3日 - 1919年5月26日[1][2])は、落語家。本名は鈴木 万次郎。
浅草福井町[1]で提灯店を営んでいた2代目三遊亭萬橘[2]の実子。
1897年に4代目麗々亭柳橋の弟子になり柳松となったが、師匠柳橋の死去にともない3代目柳家小さん門下に移って小芝となり、その後小せんに改名した[1]。
丁寧な演出と敬愛してやまなかった兄弟子3代目蝶花楼馬楽譲りの警句を交じえた巧みな口調が早くから注目されており、落語研究会の有力な若手として期待を集めていた。
1910年[1]4月真打昇進したが、それまでの過度の廓通いが祟って脳脊髄梅毒症を患い腰が抜けたため、人力車で寄席に通い、妻に背負われて楽屋入りし板付きで高座を務めるようになった。1911年頃には白内障を患って失明した。
落語の実力は他の追随を許さないほど優れていた。師匠小さんのネタはほとんど演じておらず、『居残り佐平次』『お見立て』『お茶汲み』『五人廻し』『とんちき』『白銅』などの廓噺を得意とした。『柳家小せん落語全集』『廓ばなし小せん十八番』等の速記本が残されている。
晩年は師匠小さんの薦めにより、自宅の浅草三好町を稽古場として月謝をとって落語を教えた[2]。この稽古場は「小せん学校」や「三好町通い」と称された。直弟子はいなかったが5代目古今亭志ん生、林家彦六、6代目三遊亭圓生、5代目麗々亭柳橋、3代目三遊亭金馬など、後に名人となった多くの落語家が小せんから直接教えを受けている。
1919年5月、下谷金杉の壽亭で得意ネタ『居残り佐平次』[2]をかけたのが最後の高座となり、その数日後に自宅で心臓麻痺のため死去。37歳没。戒名「古詮院法有信士」は、生前の1912年に菩提寺の住職からつけてもらった。
死後、吉井勇が随筆『或る日の小せん』を発表している。また、三代目蝶花楼馬楽の死を扱った一連の戯曲(『句楽の死』など)にも、小しんの名前で登場する。
2代目
二代目 | |
柳派定紋「丸に花菱」 | |
本名 | 上原 六三郎 |
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生年月日 | 1894年9月15日 |
没年月日 | 1959年8月12日(64歳没) |
出身地 | 日本 |
師匠 | 三代目柳家小さん |
名跡 | 1. 柳家小傳次 (1912年 - 1917年) 2. 二代目柳家小蝠 (1917年 - 1920年) 3. 二代目柳家小せん (1920年 - 1935年) |
活動期間 | 1912年 - 1935年 |
配偶者 | 松井源女 |
二代目 柳家 小せん(1894年9月15日 - 1959年8月12日[3])は、落語家。本名∶上原 六三郎。
1912年、三代目柳家小さん門下で小傳次となる。1917年頃、二代目柳家小蝠を経て1920年11月、二代目柳家小せんを襲名[3]。祈祷を思わせる声色だったため「おたきあげ」とあだ名された。
1935年に廃業し、六代目一龍斎貞山の支配人や落語協会事務員[3]に従事した。
妻は奇術師・旭マンマロの娘で曲独楽の松井源女。
4代目
四代目 Yanagiya Kosen the 4th | |
柳家小せん定紋「花菱」 | |
本名 | |
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生年月日 | 1923年7月24日 |
没年月日 | 2006年10月10日(83歳没) |
出身地 | 日本・東京都 |
師匠 | 五代目柳家小さん |
弟子 | 柳家せん八 |
名跡 | 1. 柳家小満輔 (1949年 - 1951年) 2. 八代目柳家小きん (1951年 - 1961年) 3. 四代目柳家小せん (1961年 - 2006年) |
出囃子 | せり |
活動期間 | 1949年 - 2006年 |
家族 | 二代目柳家小満ん(父) |
所属 | 落語協会 |
備考 | |
落語協会理事(時期不明) 落語協会相談役(? - 2006年) | |
四代目柳家 小せん(1923年7月24日 - 2006年10月10日[4])は、落語家。本名∶飯泉 真寿男。生前は落語協会所属。五代目柳家小さんの総領弟子。出囃子は『せり』。
経歴
東京都下谷区[4]出身(資料によっては新潟県出身ともされている)。落語家で百面相の二代目柳家小満んの息子[4]。第二次世界大戦中は陸軍兵士としてインドネシア等に出征。
1949年4月、九代目柳家小三治に入門。前座名は柳家小満輔。1951年3月に二ツ目に昇進し、柳家小きんに改名。1961年9月に二代目柳家さん助と共に真打昇進。四代目柳家小せんを襲名[4]。
フジテレビ『お笑いタッグマッチ』[4]のボケ役回答者や、NETテレビ(現テレビ朝日)系列『日曜演芸会』の大喜利「珍芸コーナー」などの人気番組へ出演し、テレビタレントとして売れた。これらの番組で使用した、妻の仮名を指すフレーズ[4]「ケメ子」が流行語となり、これにちなむポップス『ケメ子の歌』や、小せん自身が作詞した『私がケメ子よ』などのレコードがヒットした。俳優として『日本一の裏切り男』など複数の映画に、声優としてテレビ人形劇番組『ひょっこりひょうたん島』に出演した。
2004年11月24日に上野鈴本演芸場で演じた『道灌』が最後の高座になった。2006年10月10日、肺炎により死去。83歳没。
人物
レース編みを趣味としていた。
真打
5代目
五代目 Yanagiya Kosen the 5th | |
本名 | |
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生年月日 | 1974年6月28日(48歳) |
出身地 | 日本・神奈川県横浜市戸塚区 |
師匠 | 鈴々舎馬桜 十代目鈴々舎馬風 |
弟子 | 柳家あお馬 柳家ひろ馬 柳家小じか |
名跡 | 1. 鈴々舎わか馬 (1997年 - 2010年) 2. 五代目柳家小せん (2010年 - ) |
出囃子 | せり |
活動期間 | 1997年 - |
活動内容 | 落語家 |
所属 | 落語協会 |
受賞歴 | |
2002年 北とぴあ若手落語家競演会大賞 2010年 第一回落語協会大喜利王選手権優勝 2010年 初代落語協会大喜利王 | |
五代目 柳家 小せん(1974年6月28日 - )は、神奈川県横浜市戸塚区出身の落語家。本名∶河野 重信。出囃子は『せり』。
経歴
明治学院大学国際学部国際学科卒業。
1997年4月に鈴々舎馬桜に入門、 わか馬を名乗る。 三遊亭歌ご、五街道のぼり、桂南坊と共に楽屋入り。
2000年6月、二ツ目昇進。2002年に第13回北とぴあ若手落語家競演会 北とぴあ大賞受賞。2006年1月に十代目鈴々舎馬風門下に移籍。
芸歴
逸話
馬桜に弟子入りし楽屋入りする当日、馬桜は師匠の馬風より赤飯を炊いた旨の連絡を受けていたが、それを忘れてしまいそのまま寄席に行ってしまった。これに馬風は激怒し馬桜を破門にしてしまった。小せん(わか馬)は楽屋入り当日に師匠が大師匠に破門になったということになる。その後馬桜の破門は解かれた。
三代目橘家文蔵、入船亭扇辰と音楽ユニット「三K辰文舎(さんけーしんぶんしゃ)」を結成、小せんはギター・ボーカルを担当。落語会や落語協会のイベントなどで演奏を披露している。ユニット名は、三人とも本名の名字のイニシャルがK(河野・込山・川越)で始まることと、入船亭扇「辰」、橘家「文」左衛門(当時)、鈴々「舎」わか馬(当時)の1字ずつを取って命名した。
出囃子
- スーダラ節(1997年 - 2010年)
- せり(2010年 - )
二ツ目
前座
- 柳家ひろ馬
- 柳家小じか
外部リンク
- 柳家小せん - 落語協会
- 柳家小せん (@kosen5) - Twitter
- 柳家小せん ゆるりと落語 - YouTubeチャンネル
- 柳家小せん (kosen.yanagiya) - Facebook
- こせんブログ 柳家小せん - ブログ
- 歌彦・わか馬のWeb演芸場 - ウェイバックマシン(2015年6月6日アーカイブ分) - 三遊亭歌彦(四代目三遊亭歌奴)との共有ページ
脚注
- 『柳家 小せん(1代目)』 - コトバンク
- 『柳家 小せん(初代)』 - コトバンク
- 『柳家 小せん(2代目)』 - コトバンク
- 『柳家 小せん(4代目)』 - コトバンク
- tentsutsu. “サザエさんみてえだ!”. 総領の甚六【春風亭柳朝No.6のオフィシャルブログ】. 2019年11月17日閲覧。
出典
- 古今東西噺家紳士録