日本共産党(左派)

日本共産党(左派)(にほんきょうさんとう さは)は、共産主義を目指す日本左翼組織の一つ。日本共産党から中国共産党への反党対外盲従・極左として除名された福田正義らが1969年11月に結成した。毛沢東主義親中国共産党系である[1][2]スターリン主義時代のソ連に肯定的であり、ウクライナ戦争など米露対立深化以降はロシアよりも欧米・ウクライナに批判論調である[3]。「日共左派」、「山口左派」「人民の星派」ともいう。主に山口県で活動する。結党時から、左翼ナショナリズム色が強い「反米帝・反売国の愛国正義」を掲げる[1][4][2]。日本共産党(左派)の公式サイトと機関紙の最終更新は2018年であるが[5]、除名前で日本共産党中国地方委員会の常任委員時代の福田正義が1955年4月に創刊した長周新聞[6]が2022年5月時点でも更新中である[7]

日本共産党(左派)
設立 1966年(昭和41年)
設立者 初代中央委員会議長:福田正義
種類 政治団体
目的 共産主義・毛沢東主義・反米愛国
本部 日本の旗 日本 山口県下関市上田中町3-3-28 
公用語 日本語
会長 本田和人
重要人物 森脇保、寺尾五郎
機関紙 公式サイト:人民の星&機関紙:革命戦士(最終:2018年5月号)
関連紙:長周新聞
ウェブサイト 人民の星社(最終更新:2018年5月号)

概要

1966年6月、日本共産党山口県委員会では日本共産党中央指導部の自主独立路線をめぐり、県委員長山田喜一ら中央支持派と、県常任委員福田正義らの中国共産党路線支持派に分かれて対立した[8]。同9月3日の山口県党第11回県委総会で中央派が福田ら5名を除名し、反中央派幹部を相次いで統制処分にした[8]。このため「長周新聞」を発行して同志の糾合を図っていた福田らは、9月30日に「日本共産党山口県委員会(左派)」を結成した。

1969年11月、福田らは「日本共産党(左派) 第一回全国大会」を開催し、「一九二二年以来の日本共産党の革命的伝統を継承する唯一の組織」[9]と称し、以後「日本共産党(左派)中央委員会」と名乗った。

山口県に拠点を置き、毛沢東主義の立場から、中国共産党の長征になぞらえて山口県を「日本の延安」と捉えていた[10]。概して新左翼学生運動には好意的だったが、連合赤軍は批判していた[11]。1971年9月20日に議長の福田が訪中した際には、周恩来首相に「日本の真の革命政党の代表」と持ち上げられた[12]。その後、中華人民共和国アメリカ合衆国と関係を改善すると、さらに急進的な共産主義国家だったアルバニア派ホッジャ主義)に転向した後、再び毛沢東主義へと戻っている。現在ではフィリピン共産党のシソン派など他国の毛沢東主義派グループと国際的な関係を持っている。

ゆとり教育と「個性重視教育」が「凶暴な攻撃的個人主義」を育てているとみなす観点から体罰を肯定的に捉えるなどの主張をしている[13]

機関紙やホームページでは、「闘」は「斗」(「斗争」「斗い」など)、「働」は「仂」(「労仂者」など)、「々」は使わない(「人々」は「人人」など)、韓国について言及する際は国名を括弧書き(在「韓」米軍)するなど、独特の表記を用いるのが特徴。

かつては新左翼と同様にヘルメットを用いていた(白地に赤いふち入り。前面に黒字で「先鋒」)。

思想

1969年11月30日に採択された第一回全国大会の政治報告では、明治維新以後の戦前の日本は絶対主義天皇制帝国主義国家であり、1945年の敗戦後の日本はアメリカ帝国主義に従属し、アメリカ資本と国内の独占ブルジョワジーによって政治、経済的に支配されている独占資本主義の従属国だと規定した[1]。その観点から「売国反動派」のブルジョワジーを批判し、日本人民のアメリカ帝国主義と国内の反動派との闘争を重視している[1]。また、スターリン批判後のソビエト連邦修正主義社会帝国主義であると批判し、トロツキズム日本共産党修正主義マルクス・レーニン主義・毛沢東主義に敵対するアメリカ帝国主義の手先だと断じている[1]。そして、アメリカ帝国主義と独占売国ブルジョワジー双方に反対する、プロレタリア社会主義世界革命の一環としての「反米帝・反売国の愛国正義」の日本革命を訴えた[1]

略歴

  • 1966年9月 - 福田正義らが日本共産党から除名され、日本共産党山口県委員会(左派)を結成。同年、メンバーの西沢隆二(ぬやま・ひろし)が毛沢東思想研究会を設立。
  • 1968年 - 大塚有章が離脱し、毛沢東思想学院を設立。
  • 1968年4月 - 原田長司、大林清美らが離脱し、日本労働者党を結党(現在は建党同盟と合併し労働者社会主義同盟)。
  • 1969年6月 - 佐賀県の大隈鉄二が離脱し、「日本共産党革命的左派」を結成。日本共産党(革命左派)神奈川県委員会の一部と合流し、後に日本労働党となる。
  • 1969年11月 - 日本共産党(左派)を結成し、福田正義が議長に就任。結成には寺尾五郎らも関与。
  • 1975年3月 - 隈岡隆春ら関東派が分裂。関東派はその後、日本労働者党へ合流した。
  • 2001年12月23日 - 議長の福田正義が心不全により死去。90歳。

批判

日本共産党は日本共産党(左派)を分派と規定し、「福田一派」という用語などで批判している。また、日中友好協会理事長などを歴任した宮崎世民は日本共産党(左派)を「セクト主義」として、激しく非難した[14]。他にも日本共産党は1967年時点で「日本共産党(左派)」を反党対外盲従分子又は極左日和見主義者又は極左日和見分子反党教条主義者としている[2]

機関紙誌

  • 『人民の星』。
    機関紙(週2回発行)。
  • 『革命戦士』。
    機関誌(月刊)。

他に関連紙として『長周新聞』(長周新聞社)がある。

関連組織・団体

  • 人民の星社 - 公然拠点
  • 長周新聞 - 現存する関連誌
  • 劇団はぐるま座 - 福田正義の主導により結成、礒永秀雄の体験や劇作を上演。
  • 日本共産主義青年同盟(現在活動停止状態にあるものと推測される。)
  • 日本民主婦人同盟
  • 人民教育同盟
  • 下関原爆展事務局 - 長年にわたり原爆パネル展を行なっている。2003年峠三吉『原爆詩集』の海賊版を出したとして峠三吉没後50年の会より抗議を受ける。この抗議に対する反論は長周新聞に掲載された

選挙闘争

主に長周新聞勤務員などを「民主主義と生活を守る下関市民の会」推薦の無所属候補として擁立している。1979年下関市議会議員選挙において「民主主義と生活を守る下関市民の会」会長の小倉哲郎が当選して以降、途中空白期間を挟み兵頭典将、次いで本池妙子を同市議選にて当選させている(いずれも長周新聞勤務員)。候補者や議員の動向は『人民の星』や『長周新聞』などで詳しく伝えられる。2019年の同市議選では本池妙子に代わって長周新聞記者の実娘本池涼子が立候補。3000票以上獲得し、立候補者41人中第5位で当選した[15]。議会内では会派に所属していない[16]

  • 下関市議会議員選挙
    • 2007年1月 兵頭典将、当選
    • 2011年1月 本池妙子、当選
    • 2015年1月 本池妙子、当選
    • 2019年2月 本池涼子、当選

脚註

  1. 「日本共産党(左派)第一回全国大会 政治報告」 1969年11月30日採択。より引用。2010年8月13日閲覧。
  2. 日本共産党 (1967). 両翼の日和見主義とのたたかい. 東京: 日本共産党中央委員会出版部. https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001233145-00?ar=4e1f
  3. ペンタゴン下請けのメディア 大本営発表から変わらぬ体質見せるウクライナ報道 反省なき戦後出発から今日に”. 長周新聞 (2022年5月19日). 2022年5月21日閲覧。
  4. 長周新聞について”. 長周新聞 (2017年7月20日). 2022年5月21日閲覧。
  5. 人民の星”. ww5.tiki.ne.jp. 2022年5月21日閲覧。
  6. 長周新聞について”. 長周新聞 (2017年7月20日). 2022年5月21日閲覧。
  7. 長周新聞”. 長周新聞. 2022年5月21日閲覧。
  8. 「わかりやすい極左・右翼・日本共産党用語集 三訂」(警備研究会、立花書房、2008年)p161
  9. 「日本共産党(左派) 規約」日本共産党(左派)第一回全国大会 1969年11月30日採択。2010年8月13日閲覧。より引用、分析。
  10. 2.「日本の延安」――「根拠地」での凋落ぶり。2010年7月18日閲覧。
  11. 3.「連合赤軍」との仲――共通の旗は「毛沢東思想」。2010年7月18日閲覧。
  12. 4.福田正義という男――中国侵略共犯者の前歴かくす。より。鉤括弧部は引用。2010年7月18日閲覧。
  13. 「第31回人民教育全国集会 教育崩壊打開の出発点」『人民の星』5406号1面。2010年7月18日閲覧。
  14. 『宮崎世民回想録』青年出版社、1984年、149-151頁
  15. 下関市議会議員選挙(平成31年2月3日 執行)2019年2月4日 下関市
  16. 会派等一覧表 平成30年4月1日現在(期別年齢順)(PDF)2018年12月11日 下関市議会

関連文献

  • 『自主独立の旗のもとに - 山口県における毛沢東盲従反党分派との闘争二十五周年にあたっての思い出』 (記録集刊行委員会編 日本共産党(山口県小郡町)1991年9月)
  • 『宮崎世民回想録』青年出版社、1984年

外部リンク

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