二子橋
二子橋(ふたごばし、ふたこばし)は、多摩川及び並行する支流の野川に架かる道路橋の一つ。国道246号(旧道)の橋で、野川と多摩川の合流部に近い場所に位置する。
また、新二子橋(しんふたごばし、しんふたこばし)は、二子橋のバイパスとして二子橋の上流側に架けられた、同じく多摩川および野川に架かる国道246号の道路橋。本稿では新二子橋についても記す。
二子の渡し(ふたごのわたし)についても本稿で記述。#二子の渡しを参照。
二子橋
二子橋は片側1車線の道路橋。歩道は下流側にのみある。東京都側(東詰)は橋を渡ってすぐの場所にある二子玉川交差点で多摩堤通り・駒沢通りと接続する。神奈川県側(西詰)は多摩沿線道路・大山街道(溝口大通りとも。旧国道246号で国道指定が解除された部分)に接続する。
都道・県道を経て1956年に国道246号に指定されている。東京・横浜バイパスの開通後も橋とバイパスへの接続道路の区間のみは国道指定がなされている(国交省管理の指定区間からは外れ東京都管理となっている)。
1927年(昭和2年)から1966年(昭和41年)までは、電車と歩行者、自動車等が併用する鉄道道路併用橋であった。橋桁の構造がそれを物語っている。
なお、西詰では多摩沿線道路川崎駅方面からの進入(右折)はできない。
※以下は国土交通省京浜河川事務所公表情報より。
新二子橋
東京・横浜バイパスの一部を構成し、現在は国道246号のメインルートになっている。
新二子橋の左岸は高架橋(玉川高架橋)に直結し、さらに瀬田交差点付近の二子橋からの旧道との合流部を介して瀬田交差点の下を通過する立体交差へと通じている。玉川三丁目付近には地上に降りるランプが建設されており、歩行者・自転車はこのランプが開放されており地上に降りることができるが、地上の道路整備が行われていないため自動車に対しては同ランプは閉鎖されている。
そのため、自動車は瀬田交差点付近の側道との合流部まで地上に降りることはできない。なお、神奈川県側から二子玉川駅前の繁華街に出たい自動車が二子橋に集中し渋滞を引き起こすことがあるが、新二子橋経由でも瀬田交差点で転回して二子玉川駅前へ出ることができるようになっている。国道が玉川髙島屋の上空を通過していることで知られている。
なお、新二子橋の車線は軽車両通行止になっているが、自転車については下流側の歩道を走ることができる。
- 路線名 : 国道246号
※以下は国土交通省京浜河川事務所公表情報より。
歴史
二子の渡し
江戸時代、幕府は多摩川を江戸防衛の最前線と位置づけていたため、長い間架橋を制限していた。そのため、古来よりこの地を通っていた大山街道は、大正時代まで渡し舟「二子の渡し」(ふたごのわたし)が結んでいた。この渡し舟は、人を渡す舟はもちろん、馬や荷車を渡す大型の舟も用意されていた。江戸時代中期から、橋ができる1925年(大正14年)まで、二子村と瀬田村(現在の世田谷区瀬田)が村の仕事として行っていた[1]。
多摩川には各所に渡し舟があったが、農民の江戸と行き来に多く利用されていた。農民は多摩川沿いや多摩丘陵で穫れた野菜や炭などの物産を江戸(現在の東京都心部)へ運び、その折に契約している地域や家を訪ねて下肥を集め、運んで帰ったという。このため江戸には下水道がないにもかかわらず公衆衛生の水準は高く、資源の循環型社会を実現していた。
また、二子の渡しは街道筋であるため、それら農民に加えて行商人や、江戸中期以降盛んになった大山詣での参拝客にとっても大切な足として機能していた。
一方、かつて暴れ川とも呼ばれた多摩川の水かさによっては、人々は両岸で何日も足止めされる場合も少なくなかったという。そのため、渡し場の周りには茶屋や食事処、宿屋などが集まり、二子・溝口宿は街道沿いの宿場町として発展した。「二子新地」はこの当時の賑わいを今に残す名といえよう。
多摩川はその流路を度々変えたため、二子の渡しもその場所が度々変わったと言われる。かつては二子神社・兵庫島付近に渡し場があったとも言われているが、明治以降は現在二子橋が架けられている場所よりも少し下流(野川合流点付近)の瀬田地先が渡し場跡であった。
1876年(明治9年)1月当時の渡し賃は以下の通りであった[1]。
- 一人で渡る者 3厘
- 馬一頭とそれを引く者 9厘
- 荷車とそれを引く者 9厘
二子橋架橋と玉電
1923年(大正12年)の関東大震災で、罹災者の救援物資や復興物資の輸送のため、多摩川架橋の必要性は高まった[2]。また、在京の陸軍部隊が多摩丘陵、相模原で演習をする際に不可欠な兵員、物資の輸送のため、多摩川の架橋実現には陸軍省の働きかけが強かった[3]。橋の名前でも議論があり、東京側では「多摩橋」、神奈川県側は「二子橋」を主張していた[3]。二子橋建設時には、玉川電気鉄道(当時)が建設費の3割弱を出資して利用権を得、東京府、神奈川県、高津村との四者4分の1ずつを負担し、総額36万円で完成した[2]。架橋した際に橋上に軌道(橋上では単線)を敷設したことにより、玉川(現・二子玉川)~溝口(現・溝の口)までの玉電溝ノ口線が開通した。
以降、1927年(昭和2年)から1966年(昭和41年)までは玉電(その後東急大井町線・東急田園都市線)と歩行者、自動車等が併用する鉄道道路併用橋であった。
- 二子橋右岸の、現在は高架駅となった二子新地駅下には当時の線路跡と思われる地形が残っており、当時を偲ばせる。
- 二子橋を含む二子玉川駅~溝の口駅間は、1927年~1943年は玉電溝口線、1943年~1963年は改軌されて東急大井町線、1963年~1966年は大井町線から名称変更された東急田園都市線として運転されたため、同じ区間であるが3路線が運行されたことになる。
しかし、年々増加する自動車交通と鉄道の双方が二子橋を通行することは困難となった。また1964年には電車と大型トラックの衝突事故も発生した。そのため、鉄道専用橋が建設されることになり、1966年4月1日に東急田園都市線が長津田まで延伸されるのを機に、鉄道は専用橋(東急田園都市線二子橋梁)に移された。
周囲の橋
- 多摩川
- (上流)- 小田急小田原線多摩川橋梁 - 東名多摩川橋 - 新二子橋 - 二子橋 - 東急田園都市線二子橋梁 - 多摩川橋(第三京浜道路) - (下流)
- 野川
- (上流) - 野川水道橋 - 吉沢橋 - 新二子橋 - 兵庫橋 - 二子橋 - 東急田園都市線二子橋梁 - 多摩川に合流(下流)
参考文献
- 鈴木穆『高津物語 上巻』タウンニュース社、2004年1月。
外部リンク
- 渡船
- 世田谷区の歴史
- 高津区の歴史
- 矢倉沢往還
- 江戸時代の水運
- 東京都の交通史
- 世田谷区の交通
- 神奈川県の交通史
- 高津区の交通
- 多摩川水系
- 二子玉川
- 河川水運