川本浩次
川本 浩次(かわもと こうじ、1951年9月26日 - )は、京都府[1]出身の元プロ野球選手(外野手)。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1951年9月26日(71歳) |
身長 体重 |
175 cm 76 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1969年 ドラフト外 |
初出場 | 1974年 |
最終出場 | 1974年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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来歴・人物
平安高では外野手、控え投手として活躍し、2年生時から春夏4回連続で甲子園に出場している。1年上の池田信夫、石山一秀のバッテリーを擁し、右翼手として1968年春の選抜に出場。準々決勝で大宮工の吉沢敏雄に抑えられ敗退[2]。同年夏の選手権では、1回戦でまたも大宮工と対戦、9回表に逆転され敗れる[3]。
3年生時には三番打者、中堅手に回る。春の選抜では、2回戦(初戦)で同大会で優勝した三重高のエース上西博昭を崩せず敗退[2]、この大会では選手宣誓を務めた(京都の高校で初)。同年夏の京滋大会決勝では、比叡山高のエース間柴茂有の好投に苦しめられるが、延長11回の末に辛勝、夏の選手権への出場を決める。しかし大会では太田幸司、八重沢憲一がいた三沢高校に準々決勝で敗れた[3]。高校同期にはエースの家村孝次(法大)、四番打者、一塁手の渋谷通がいる。
強肩俊足の外野手として期待され、1969年にドラフト外で阪神タイガースへ入団[1]。しかし一軍での出場はなく、1970年11月の第1回選抜会議(トレード会議)の対象となり、1971年から近鉄バファローズへ移籍[1]。1974年にはシーズン最終戦で一軍初出場を果たし、日本ハムの高橋直樹から初安打を記録するが、その後は出場機会がなく1975年限りで引退した。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
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1974 | 近鉄 | 1 | 2 | 2 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .500 | .500 | .500 | 1.000 |
通算 | 1 | 2 | 2 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .500 | .500 | .500 | 1.000 |
背番号
- 43 (1970年)
- 58 (1971年 - 1974年)
- 36 (1975年)
脚注
- プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、176ページ
- 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
- 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
外部リンク
- 個人年度別成績 川本浩次 - NPB.jp 日本野球機構
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