山村蘇門
生涯
山村家は関ヶ原の戦いでの功により、当初は天領、元和元年(1615年)以降は尾張藩領となった木曽で代官を務めた家柄であった[2]。蘇門の父・良啓は江戸の分家の生まれであったが、延享4年(1747年)に本家に養子に入った[3]。その子である蘇門は、山村家の侍医であった三村道益に学問の手ほどきを受け[4]、宝暦11年(1761年)には江戸で大内熊耳に師事した[5]。
天明元年(1781年)、蘇門は家督を嗣ぎ、9代目の代官となった[6]。凶作が続いたこの時期、蘇門は美濃や松本から木曽へ米を入れるとともに、産業の振興を図り、財政を改善した[7]。天明7年(1787年)に木曽領内を視察した松平定信は、山国の木曽で蘇門による飢饉対策がよくなされていることに注目、蘇門は尾張藩の家老に迎えられることになった[8]。
参考文献
- 井口利夫 著、木曽福島町教育委員会 編『山村蘇門』木曽福島町教育委員会、1999年 。
- 今田哲夫『山村蘇門―近世地方文人の生涯―』郷土出版社、1988年。
- 高橋明彦「山村蘇門・追考 : 略年譜、交友など」『金沢美術工芸大学紀要』第40号、金沢美術工芸大学、1996年、70-58頁。
脚注
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