安養寺 (刈谷市)
安養寺(あんようじ)は、愛知県刈谷市熊野町6丁目25にある真宗大谷派の寺院。山号は海上山[1]。本尊は阿弥陀如来。寺宝には親鸞聖人御影や蓮如上人筆六字名号などがある。
安養寺 | |
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所在地 | 愛知県刈谷市熊野町6丁目25 |
位置 | 北緯34度59分39.1秒 東経136度59分13.2秒 |
山号 | 海上山 |
宗派 | 真宗大谷派 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 文亀3年(1503年) |
開山 | 養厳 |
中興年 | 慶長9年(1604年) |
中興 | 法珍 |
歴史
境内
- 本堂
- 書院
- 庫裏
- 山門
- 鐘楼堂
- 手水舎
- 河目正平先生之碑
- 内陣
- 鐘楼堂
- 手水舎
河目正平
「河目正平」も参照
嘉永2年(1849年)11月12日、河目正平は三河国碧海郡熊村(現在の愛知県刈谷市)に生まれた[3][4]。幼名は幸太郎であり、後に源吾と称し、やがて正平に改めた[3][4]。刈谷藩の藩校である文礼館の教師を務めていた[5]。1870年(明治3年)7月、刈谷藩の命で大垣藩に遊学し、帰郷すると刈谷学校(現・刈谷市立亀城小学校)、熊村学校、高浜学校(現・高浜市立高浜小学校)、野田学校(現・刈谷市立双葉小学校)で教員を務めた[3][4]。1890年(明治23年)8月6日に40歳で死去した[3][4]。河目には二男二女があった[3]。1922年(大正11年)8月、門人らによって安養寺に石碑が建立された[3][4]。
河目正平の子には河目揆一や河目悌二などがいる[6]。長男の河目揆一は1914年(大正3年)まで小高原尋常小学校(現・刈谷市立小高原小学校)の校長を務め、1914年(大正3年)から明治第四尋常小学校(後の和泉小学校、現・安城市立丈山小学校)の校長を務めた[7]。
二男の河目悌二は1889年(明治22年)8月6日に生まれ、1913年(大正2年)に東京美術学校(現・東京芸術大学)洋画科を卒業すると、小林商店(現・ライオン)などで図案家として活躍した[6]。1937年(昭和12年)に小林商店を退社し、戦中にも児童誌の挿絵画家として活動した。
脚注
- 刈谷町誌編纂会『刈谷町誌』刈谷町、1932年、pp.325-326
- 刈谷市誌編さん委員会『刈谷市誌』刈谷市、1960年、pp.268-269
- 石碑「河目正平先生之碑」
- 刈谷町誌編纂会『刈谷町誌』刈谷町、1932年、p.375
- 刈谷市美術館『生誕120周年記念 河目悌二展』刈谷市美術館、2009年、p.80
- 久米康裕『三河知名人士録』尾三郷土史料調査会、1939年、p.439
- 刈谷町誌編纂会『刈谷町誌』刈谷町、1932年、p.97
外部リンク
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