奥野昌綱
奥野 昌綱(おくの まさつな、文政6年4月4日(1823年5月14日) - 明治43年(1910年)12月12日)は日本の牧師。横浜バンドの中心的メンバーの一人。文語訳聖書の翻訳や日本賛美歌のために大きな貢献をした。
おくの まさつな 奥野 昌綱 | |
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生誕 | 1823年5月14日 江戸 |
死没 | 1910年12月12日(87歳没) 日本 |
国籍 | 日本 |
別名 | 又右衛門、銀三郎(通称) |
出身校 | 昌平坂学問所 |
職業 | 牧師、賛美歌作家、聖書翻訳者 |
子供 | 久子(稲垣信の妻) |
生涯
初期
1823年(文政6年)江戸幕府の下級武士である徒士竹内五郎左衛門直道の三男として、江戸に生まれた。通称を銀三郎と言った。1827年に4歳で母を亡くし、その後継母が来た。1833年に上野の寛永寺の中の春性院の随身者になり、仏学をはじめ漢学、武術、音曲などを学んだ。1838年に昌平坂学問所に通い、四書五経を二年間で習得して試験に合格する。
1847年に輪王寺宮御家司の近江守奥野昌忠の養子になる。二、三年後に輪王寺宮に仕え、納戸役にまで昇進する。
戊辰戦争
輪王寺宮一品慈性法親王が、1867年(慶応3年)に、輪王寺門跡を公現法親王(北白川宮能久親王)に譲る。奥野は公現法親王に仕える。
1868年(慶応4年)5月15日に上野戦争で彰義隊が敗北し、輪王寺宮は奥州へ逃走する。その際家臣の奥野も同行する。輪王寺宮は白石城で奥羽越列藩同盟の盟主に迎えられる。奥州が新政府軍に制圧されると、輪王寺宮は朝敵として謹慎を命じられる。
奥野は輪王寺宮の釈放を嘆願したが聞き入れられず、神仏に祈るも無駄であった。そして、明治維新に際して、輪王寺と離別した。
横浜時代
1872年(明治5年)に奥野の女婿の友人小川義綏の誘いでJ・C・ヘボンの日本語教師になった。8ヶ月間ヘボンの助手として『和英語林集成』第二編の編集を手伝った。ヘボンが上海に出張すると、S.R.ブラウンを助けて、1872年に始まった文語訳聖書の翻訳に際して協力者になった。
1873年(明治6年)の夏にジェームズ・バラの「ペテロの拒絶」という説教を聞いた時に、自分が主イエスを拒絶したのち、主のまなざしに出会い激しく泣いた使徒ペテロは、自分のことであると感じて洗礼を受ける決心を固めた。そして、その年、49歳でS.R.ブラウンより洗礼を受けた。日本人では27人目であった。その後、ヘボンやジェームス・バラを助けて、賛美歌の翻訳や編集に関係した。
逸話
作詞
- 讃美歌96番「朝日は昇りて」
- 讃美歌293番「知恵とちからの」
- 讃美歌323番「よしや世の人の」
- 讃美歌356番「わが君イエスよ」
- 讃美歌396番「やまいの床にも」
- 讃美歌537番「わが主のみまえに」
著作(新版)
参考文献
脚注
- 『日本キリスト教歴史大事典』825ページ
- 『長老・改革教会来日宣教師事典』301ページ