夕張鉄道キハ250形気動車

夕張鉄道キハ250形気動車(ゆうばりてつどうキハ250がたきどうしゃ)は、かつて夕張鉄道で使用されていた気動車である。

錦沢スイッチバックを行くキハ251(1954年

なお本稿では、増備車のキハ252形気動車(キハ252がたきどうしゃ)以降についても記載する。

概要

キハ200形の導入の成功により、増備された半鋼製2軸ボギー液体式気動車である。キハ251は1953年昭和28年)に導入された北海道初の液体式気動車であり、国鉄千歳線上で公開試運転も行われ、道内に於ける液体式気動車導入のパイオニアとなった[1]1955(昭和30)、1956年(昭和31年)に増備されたキハ252 - 254の3輌はキハ251とは座席配置と窓配置が異なるため、別形式のキハ252形とされた。その後キハ252と253は向きの異なる片運転台改造が施され、各車がそれぞれ別形式となった。エンジンはDMH17B、製造は新潟鐵工所である。旅客輸送合理化に伴いキハ252・253が1971年(昭和46年)に廃車され、また、旅客輸送休止に伴いキハ251・254が1974年(昭和49年)に廃車となった。これらのうち鹿島鉄道に譲渡され、キハ714となったキハ251は、鹿島鉄道が廃線となった2007年平成19年)3月31日まで使用された。

仕様

キハ251形は1953年(昭和28年)8月に新潟鉄工所で製造された総括制御可能な液体式、全長20 m 級の両運転台車。正面は当時流行していた湘南形、側面の窓扉配置は11(1)D7D(1)1dで窓はバス窓、扉はプレスドア、塗色は当初は下半分マルーン(正面は金太郎塗り)、上半分クリーム色で、後に下半分を濃赤色に変更した。室内は中央部クロスシート、車端部ロングシートの組合せで、全室式の運転台は客室との仕切りが下半分のみの開放式、床は木張り。走行装置は当時最新鋭のDMH17BエンジンとDF115液体変速機の組み合わせ[2]であるほか、台車はキハ200形と同様の菱枠式で、動軸砂撒き管付き、スノープラウは上下可動式、連結器は並形自動連結器(柴田式座付)であった。

  • 1958年には座席をキハ252形と同様の扉間転換クロスシートに改造した。
  • 暖房装置は当初温水および排気暖房であったが、1960年(昭和35年)にウエバスト式暖房機2基に改造、さらにその後1964年には機関予熱器を併用する温水式に改造された。
  • 推進軸の故障[3]対策として1962年に車輪をプレート式に変更したほか、軸受のベアリングをテーパーローラ式からスヘリカルローラ式に変更する改造を行った。
  • その他、タイフォン前照灯下に移設、尾灯位置に補助灯(補助灯/尾灯切り替え式)を設置、室内灯を白熱灯から蛍光灯に変更するなどの改造を実施した。
  • 北海道初の液体式気動車ということで注目され、1953年(昭和28年)10月7日には千歳線の札幌 - 千歳間で公開試運転を実施したほか、1957年(昭和32年)夏にはキハ251+キハ252が海水浴臨時列車として夕張本町 - 函館本線銭函間を運転した。
キハ252の切妻側運転台(岡山臨港鉄道譲渡後)

キハ252形はキハ251の増備としてキハ252が1955年に、キハ253、254が1956年(昭和31年)に新潟鉄工所で製造された。基本的にはキハ251形と同様であるが、座席配置が扉間転換クロスシート、車端部ロングシート(いずれもこげ茶色のビニール張)に変更となり、これに伴って窓扉配置も11(1)D282D(1)1dに変更されたほか、側面への雨トイの設置、運転席側面窓の上方向への拡大、暖房をウエバスト式とするなどの変更がなされている。

  • キハ252はトラックとの衝突事故で運転台を破損したため、復旧に際して片運転台化改造されることとなり、1961年(昭和36年)に付随台車側の運転台を撤去して切妻式として簡易運転台と貫通路を設け、同時に妻角部に排気管を通して屋根上排気としたが、その後1966年(昭和41年)には簡易運転台を整備して正式の運転台に改造して両運転台に戻っている。切妻側の運転台は片隅式で客室との仕切りが下半分のみの開放式、外観は切妻のままの正面に前照灯、補助灯が設けられたもので、正面窓が運転台側にしかないのが特徴であった。窓扉配置は11(1)D282D(1)2(右が改造運転台)および3(1)D282D(1)1d(左が改造運転台)であった。
  • キハ252はその後キハ251と同様の改造を受け、1962年(昭和37年)に車輪、車軸軸受ベアリングの変更、1963年(昭和38年)に暖房の温水暖房化と室内灯の蛍光灯化がなされている。
  • キハ252とキハ253は1957年(昭和32年)には片側の車端部を敷きとして電磁石入り碁盤を備えるなど娯楽室として整備したが、翌1958年(昭和33年)には座席に復旧された。この当時の記録映画の車内風景では、碁石は車掌に申し出れば借りられることが張り紙などで確認できる。

キハ253形は1962年にキハ253を片運転台に改造したもので、キハ252と同様の改造であったが、逆側の動力台車側の運転台を撤去したため別形式となったものである。キハ252と同じく撤去側を切妻式として簡易運転台と貫通路を設けたが、その後1966年(昭和41年)には簡易運転台を整備して正式の運転台に改造して両運転台に戻っている。

  • その後キハ251と同様の改造を受け、1962年(昭和37年)に車輪、車軸と軸受ベアリングの変更、暖房の温水暖房化と室内灯の蛍光灯化がなされている。

キハ254形はキハ252、キハ253が片運転台化改造されたため、両運転台のまま残ったキハ254を別形式としたものである。

  • その後キハ251と同様の改造を受け、1962年(昭和37年)に車輪、車軸と軸受ベアリングの変更、1963年(昭和38年)に暖房の温水暖房化と室内灯の蛍光灯化がなされている。

主要諸元

  • 最大寸法:全長20,100 mm、全幅2,730 mm、全高3,695 mm
  • 自重:29.5 t(キハ251改造後):29.5t(キハ252 - 254)
  • 定員:120名(座席68名)(キハ251改造後):122名(座席70名)(キハ252、253改造後):116(68人)(キハ252、253改造前、キハ254)
  • 走行装置
  • 台車:NH38(国鉄TR29形台車と同系の菱枠式1軸駆動台車)

歴史

運行

  • 夕張鉄道では野幌 - 新夕張間の旅客列車に単行 - 4両編成で使用された。気動車のみの単行、2両編成のほか、客車改造の付随車(客車を改造したナハニフ100形およびナハニフ150形)を牽引したDTおよびDDT、もしくは中間にはさんだDTD編成を組んだが、さらに両運転台車やキハ200形を増結したDTDDで編成を組んだこともある。運行の概要については夕張鉄道線の運行の項も参照。
  • 1961年(昭和36年)9月1日には野幌 - 夕張本町間に急行列車運転開始し、野幌バス停留所 - 札幌大通間をバス連絡輸送することで札幌市内への乗り入れを行った。キハ300形とともに急行列車に使用され間に付随車を連結したDTDの3両もしくは2両編成などで運転された。急行列車はその後1967年(昭和42年)まで運行された。
  • 末期には旅客輸送量の減少に伴い1965年(昭和40年)頃からは単行主体となったほか、旅客列車が野幌 - 栗山間のみとなった1971年(昭和46年)以降は気動車はもともとの両運車であるキハ201、202、251、254のみとなった。

廃車・譲渡

鹿島鉄道キハ714(元キハ251)石岡機関区
岡山臨港鉄道大元駅にて、キハ7002(元キハ253)
美作市で保存されていた頃のキハ7001(先頭、元キハ252)、キハ7002(元キハ253)

キハ251

  • 廃車後関東鉄道に譲渡され、1976年1月16日に鉾田線[4]キハ714形キハ714となり、入線時に際し補助灯を尾灯への改造とタイフォンの床下への移設を実施した。
  • 1977年(昭和52年)5月に座席をロングシート化、1980年10月に屋根以外の外板張替、運転台側に乗務員室扉を設置改造を行った。
  • 扉配置の関係でワンマン化が出来なかったが、1994年平成6年)7月12日には冷房化され20 m 級の車体を活かしてラッシュ時などに使用されていた。
  • 2007年(平成19年)3月31日鹿島鉄道廃止と同時に現役を引退した[5]

キハ252、キハ253

キハ254

  • 廃車後関東鉄道に譲渡され、1976年(昭和51年)1月16日に鉾田線キハ715形キハ715となり、入線時に際し補助灯を尾灯への改造とタイフォンの床下への移設を実施した
  • 1977年(昭和52年)には座席をロングシート化、1978年(昭和53年)11月には車体更新を実施し、屋根以外の外板張替、運転台側に乗務員室扉を設置を行っている。
  • 三井芦別鉄道キハ100形キハ101 - 103[8]のキハ711 - 713やキハ714とともに使用されていたが、冷房化されずに1993年(平成5年)2月1日に廃車となった。

参考資料

  • 湯口徹『北線路(上)』(プレス・アイゼンバーン)
  • 『鉄道ピクトリアル212号 私鉄車両めぐり 第9分冊』(鉄道図書刊行会)
  • 『夕張鉄道11形明細図面集』(モデルワーゲン)

脚注

  1. 北海道での国鉄の液体式気動車の配置はキハ17が1954年に室蘭機関区に配置されたのが最初。機械式では戦前にキハニ5000が使用されていたほか、戦後1951年に室蘭機関区にキハ06とキサハ04が配置されたのが最初。
  2. 国鉄のキハ44500形キハ10系なども同じ1953年製である。特にDF115液体変速機については国鉄ではキハ42500形で試験中の段階であった。
  3. 推進軸の故障のため推進軸の強度を600 kgm に強化したが、その後動軸が折損したため動軸を強化したところ次に動輪のスポーク折損が発生したため、車輪をプレート車輪に変更し、推進軸を元の500kgmのものに戻した。同様の事故とその対策は国鉄キハ07形などでも実施された。
  4. 1979年4月1日に鉾田線は分離され鹿島鉄道となった。
  5. 現在は個人が保管している。後に「鹿島鉄道記念館」として整備し、適宜一般公開が行われる予定である。
  6. 譲渡時は倉敷市交通局であったが1970年(昭和45年)4月1日に水島臨海鉄道に鉄道事業を譲渡。
  7. この際同時に元キハ301のキハ301も譲渡されてキハ7003となって使用されたが、同じく譲渡されたナハニフ153は入籍しなかった。また、元キハ302のキハ302は水島臨海鉄道時代に踏切事故で損傷したため廃車となっている。
  8. 1958年(昭和33年)新潟鉄工所製の20 m 級両運転台車で、機関DMH17B、台車NH38、正面は湘南型とキハ250形と同様の車両であった。
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