僧肇

僧肇(そうじょう、拼音: Sēngzhào374年/384年 - 414年[1])は、中国後秦仏僧[2]鳩摩羅什門下の四哲の一人[1]中国仏教史・中国哲学史の重要人物[3][4]

現存する作品に、道家儒家の思想を含む論書肇論』(じょうろん)[5]のほか、『維摩経』の主要な注釈書『註維摩詰経』[6]などがある。

人物

鳩摩羅什門下の「四哲」として、道生慧観僧叡と並び称される。鳩摩羅什からは「解空第一」(理解の第一人者)と賞賛された[7][8]仏教史においては、仏図澄釈道安・鳩摩羅什・廬山慧遠らと並ぶ格義仏教後の中国仏教の形成者[9]、および、吉蔵に先立つ三論宗の祖に位置付けられる[7]

京兆(すなわち長安)の貧家に生まれる[10]出家前、傭書を生業として経史の古典に通じ、とくに老荘思想玄学に親しむ[10]支謙訳『維摩経』を読んで感銘を受けたのを機に出家する[10]大乗小乗三蔵に通じ、若くして長安の学界で名を馳せる[10]。鳩摩羅什が姑臧に来ると、同地に赴き弟子となる[10]。以降、長安で鳩摩羅什の訳経を補佐しつつ、自著を執筆する[2]

生没年は、慧皎高僧伝』では414年に31歳で没したとあり、384年生ということになる[10]。しかしそれではあまりに早熟過ぎるなどの理由から、実際は374年生とする説もある[10]

作品

『肇論』

『肇論』(大正蔵諸宗部1858)は、『物不遷論』『不真空論』『般若無知論』『涅槃無名論』の4篇の論文に『宗本義』1篇が冠された論文集である[11]。論文集としてまとめられたのは、没後の南朝においてと推定される[3]。『涅槃無名論』と『宗本義』には偽書説がある[1][12]

『般若無知論』の成立は405年前後で、『肇論』の中で最も早い[13]。本論文は鳩摩羅什に賞賛され、同門の道生により、同時代の東晋にも伝えられた[13]。篇末には、本論文を受容した東晋の劉遺民廬山慧遠の友人)との往復書簡をまとめた『劉遺民書問』が付されている[13]

『涅槃無名論』は、4篇のうち最後に成立した論文で、鳩摩羅什没後、当時の皇帝姚興の求めにより書かれた[12]

『肇論』には、インドの龍樹中論』などに加え[3]中国哲学、なかでも老荘思想玄学の影響が随所に見られる[3][14]。また、体用論に近い思想を含むことから、本書を体用論の先駆の一つに位置付ける説もあるが、この説には批判もある[15]

本書は、後世とくに陳から代の三論宗において重要視され、以降の禅仏教にも影響を与えた[3]。日本にも三論宗とともに伝わったが、中国に比べ老荘が浸透していなかったためか、あまり重要視されなかった[3]

注釈書

後世の注釈書(末疏)として以下が現存する[16]

  1. ・恵達『肇論疏』
  2. ・元康『肇論疏』
  3. ・遵式『註肇論疏』
  4. 宋・浄源『肇論中呉集解』
  5. 宋・浄源『肇論集解令模鈔』
  6. 宋・夢庵和尚『夢庵和尚節釈肇論』
  7. ・文才『肇論新疏』
  8. 元・文才『肇論新疏游刃』
  9. ・徳清『肇論略疏』

その他、明の雲棲祩宏紫柏真可が、随筆で本書について論じている[16]円仁『入唐求法目録』などには、現存しない注釈書の名が見られる[16]

『註維摩詰経』

『註維摩詰経[6][17]』(大正蔵経疏部1775)は、鳩摩羅什訳『維摩経』(『維摩詰所説経』)の注釈書で、『注維摩詰経』『注維摩[18]』などとも表記される。

本書は僧肇自身の注釈や序文に加え、鳩摩羅什や同門の道生道融の解釈も伝える[18]。後世、『維摩経』の基本的な注釈書として受容され、現代でも参照される[6]

日本では、聖徳太子維摩経義疏』で本書が参照されている[18]。「本地垂迹」という語の初出も本書の序文に見られる[19]

20世紀敦煌トルファン学では、本書の僧肇単注本の写本が発見されている[20]

その他

その他、現存する作品に『百論序』『長阿含経序』『宝蔵論』『梵網経序』『金剛経註』『法華経翻経後記』『鳩摩羅什法師』がある[21]。現存しない作品に『丈六即身論』がある[13]

現行の『金剛経註』は、謝霊運佚書『金剛般若経注』がすり替わったものとする説もある[22]

研究史

日本では、1955年塚本善隆を代表者とする京大人文研の研究班が『肇論研究』を刊行した[23]。同班には、仏教学中国哲学の両分野の研究者が参加したが、老荘要素の強さをめぐって意見がわかれ[23]、とくに福永光司は老荘要素を強調した[5]1985年には、仏教学者の伊藤隆寿が『肇論一字索引』を刊行して研究の進展を促したが[23]、同時に「仏教の歪曲者」として批判もした[23][24]

中国では、1930年代湯用彤を筆頭に[15][25]、盛んに研究されてきた。1960年代には唯物史観により批判されることもあった[23]

脚注

  1. "僧肇". 伊藤隆寿 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンクより2022年7月23日閲覧
  2. 岩波書店辞典編集部 2013, p. 1502.
  3. 塚本 1955, p. 158f.
  4. 中西 1987, p. 285.
  5. 遠藤 2014, p. 136.
  6. 石田 1966, p. 256.
  7. 平井 1990, p. 397.
  8. 中西 1987, p. 284f.
  9. 柳田 1969, p. 81.
  10. 塚本 1955, p. 120f.
  11. "肇論". 伊藤隆寿 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンクより2022年7月23日閲覧
  12. 塚本 1955, p. 154f.
  13. 塚本 1995, p. 150f.
  14. 福永 2005, p. 133.
  15. 船山 2019, p. 47.
  16. 牧田 1955, p. 276-281.
  17. 重要美術品|註維摩詰経 巻第八|奈良国立博物館”. www.narahaku.go.jp. 2022年7月22日閲覧。
  18. 湯浅 2020, p. 133.
  19. 「本地垂迹について知りたい。」(近畿大学中央図書館) - レファレンス協同データベース
  20. 平井 1983, p. 312.
  21. 塚本 1955, p. 146.
  22. 鵜飼 1992.
  23. 岡部 1989, p. 32.
  24. 伊藤 1992.
  25. 遠藤 2014, p. 17.

参考文献

『肇論』日本語訳

外部リンク

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