信藤健仁

信藤 健仁(しんとう かつよし、1960年9月15日 - )は、日本の元サッカー選手DF)、指導者(JFA 公認S級コーチ)。広島県広島市出身。元サッカー日本代表中央大学文学部国文科卒業。JSL時代の登録名は信藤 克義(しんとう かつよし)で、Jリーグ後は信藤 健仁と登録されている。

信藤 健仁
名前
カタカナ シントウ カツヨシ
ラテン文字 SHINTO Katsuyoshi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1960-09-15) 1960年9月15日(62歳)
出身地 広島市
身長 180cm[1]
体重 73kg[1]
選手情報
ポジション DF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1983-1990
1990-1992
1992
1993
1994-1995
マツダSC
三菱自動車
浦和レッドダイヤモンズ
フジタSC
ベルマーレ平塚
0? (?)
0? (?)
0- (-)
0? (?)
016 (0)
代表歴
1987-1990[2] 日本の旗 日本 016 (1)
監督歴
1996
1997-1998
1999
2001-2002
2006-2007
2008-2009
平塚普及コーチ
平塚ヘッドコーチ
東邦チタニウムコーチ
横浜FC監督
中央大学ヘッドコーチ
浦和チームダイレクター
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj

来歴・人物

広島のサッカー無名校である広島県立安古市高等学校(2期生)、中央大学を卒業後の1983年、今西和男総監督と二村昭雄監督に誘われ日本サッカーリーグ1部所属のマツダSC(現 サンフレッチェ広島)に入団[3]。その年、チームは最下位となりチームは2部転落してしまう。

翌年ハンス・オフトおよびディド・ハーフナーがコーチに招聘され、双方からプロとして大きな影響を受けた[4]。1985-86年シーズン、チームは再び1部復帰。

そこでの活躍を受けて1987年、石井義信監督下で日本代表に初選出される。翌1988年、横山兼三監督就任と同時にレギュラーに定着。若い井原正巳堀池巧らと共にディフェンスラインを形成し、1989年のワールドカップイタリア大会アジア予選を戦った。また同年6月のインドネシア戦ではゴールも記録、翌1990年のアジア競技大会北京大会では主将も務めた。

また、所属チームでは松田浩と共にセンターバックとして活躍。1986年、サッカー界全体の流れから今西にプロ契約を直談判し、マツダのプロ契約第1号となる[5]。1988年にはチームの天皇杯決勝進出に貢献した。

しかし1987-1988年シーズン、マツダは再び2部転落。1部への移籍を希望[6] し、1990年三菱自動車(現 浦和レッドダイヤモンズ)に移籍。斉藤和夫監督下で守備の要として活躍したが、2年連続下位に沈み、1992年のナビスコ杯直前、チームがトリビソンノを獲得しレギュラーを剥奪された。

1993年、フジタSC(現 湘南ベルマーレ)球団部長だった石井義信と古前田充監督に誘われ、Jリーグ入りを目指すフジタへ移籍。ベルマーレ平塚誕生後の若いチームを引っ張り、1994年昇格後のNICOSシリーズ(セカンドステージ)2位、天皇杯優勝、アジアカップウィナーズカップ優勝に貢献した。1995年、35歳で引退。

翌1996年からベルマーレ平塚サッカー普及コーチ、1997年からベルマーレ平塚ヘッドコーチ。1996年立ち上げられた「Jリーグ選手協会」にも顧問として尽力した。

2001年、代表時代から師弟関係にあった奥寺康彦に誘われ横浜FC監督就任。サッカーファンを仰天させた2-4-4の超々攻撃的システムを掲げ戦う[7]。明確な戦術を提示し積極的に若手を起用、神野卓哉をくさびとする波状攻撃を仕掛け2年間を戦うも、相手チームの徹底したカウンター攻撃に沈み、2002年はJ2最下位という結果に終わり解任された。

また現役引退後からテレビ(WOWOW他)の解説、新聞、サッカー雑誌評論などでも活躍。2006年から中央大学サッカー部のヘッドコーチも務めた。

2008年12月より、浦和レッドダイヤモンズのチームダイレクターに就任。統括責任者としてトップチームの編成等を行うも、2009年途中に、補強失敗による、チームの成績不振によって、一部サポーターから自宅襲撃に合い、体調不良を訴え、精密検査を受診したところ甲状腺の機能に障害が認められ、治療が必要と診断、11月29日に体調不良で休養に入ることを発表した。その後、12月25日にチームダイレクター退任が発表された。 「Talk on Together 2010」内で、「信藤健仁さんの健康状態はどうなのか」という一般からの質問に対し橋本光夫社長からは「健康状態は回復しつつあるが時間がかかる」とのコメント。また信藤と会談があったことが伝えられ、信藤からのコメントが発表され「謝罪も無くシーズン中にチームを離れることになって申し訳ない、出来れば回復したらここに来て謝罪したい」と言った。

所属クラブ

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本リーグ戦JSL杯/ナビスコ杯天皇杯期間通算
1983マツダJSL1部
1984JSL2部21
1985
1986-87JSL1部
1987-88
1988-89JSL2部
1989-9030120
1990-91三菱25JSL1部21110
1991-92522111
1992浦和-J-100010
1993フジタ旧J11203000150
1994平塚-J1400000140
199520-0020
通算日本J 1601000170
日本JSL1部 1002
日本JSL2部
日本旧JFL 1203000150
総通算

JSLオールスターサッカー 3回出場(1986年、1987年、1992年)

その他の公式戦

代表歴

試合数

  • 国際Aマッチ 16試合 1得点(1987-1990)[2]
日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1987205070
198830120150
19898170151
1990200020
通算 161240401

指導歴

監督成績

年度所属クラブリーグ戦カップ戦
順位試合勝点勝利引分敗戦ナビスコ杯天皇杯
2001J2横浜FC9位4443151282回戦敗退4回戦敗退
2002J2横浜FC12位443581125-3回戦敗退
J2通算-88-231253

参考文献

  • 『1990-1991JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1990 ISBN 4-523-31032-7
  • 『1991-1992JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1991 ISBN 4-523-31033-5
  • 『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1992-1993』、小学館、1992 ISBN 4-09-102301-0
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1994・サントリーシリーズ』、小学館、1994 ISBN 4-09-102310-X
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1994・ニコスシリーズ』、小学館、1994 ISBN 4-09-102314-2
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1995・サントリーシリーズ』、小学館、1995 ISBN 4-09-102318-5
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1995・NICOSシリーズ』、小学館、1995 ISBN 4-09-102321-5
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1996』、小学館、1996 ISBN 4-09-102324-X
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1997』、小学館、1997 ISBN 4-09-102329-0
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1998』、小学館、1998 ISBN 4-09-102335-5
  • 『J.LEAGUE Official Fans' Guide 2001』、トランスアート、2001 ISBN 4-88752-104-9
  • 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2002』、NTT出版、2002 ISBN 4-7571-8116-7
  • 『Jリーグオフィシャルレコード&データ1994』、小学館、1994 ISBN 4-09-102309-6
  • 『Jリーグオフィシャルレコード&データ1995』、小学館、1995 ISBN 4-09-102317-7
  • 『Jリーグオフィシャルレコード&データ1996』、小学館、1996 ISBN 4-09-102323-1
  • 『J.LEAGUE YEARBOOK 1999』、トランスアート、1999 ISBN 4-88752-099-9
  • 『J.LEAGUE YEARBOOK 2002』、NTT出版、2002 ISBN 4-7571-8117-5
  • 『J.LEAGUE YEARBOOK 2003』、NTT出版、2003 ISBN 4-7571-8135-3

脚注

  1. 『Jリーグオフィシャルガイド1995・NICOSシリーズ』p96
  2. “信藤 健仁”. サッカー日本代表データベース. http://www.jfootball-db.com/players_sa/katsuyoshi_shinto.html
  3. 入団同期に小林伸二木村孝洋今川正浩上原洋史、山田隆(山田直輝の実父)ら。
  4. フィジカルトレーニングは、かつて経験したことのないほどの量と厳しさだったと言う。また、ハーフナーは24時間頭の中はサッカーだけだったと言う。
  5. ちなみに同期の今川も同年にプロ契約している。
  6. 英語が堪能な夫人は当時マツダ本社に勤めるキャリアウーマンで、その仕事も犠牲にしなければならなかった。
  7. History of YOKOHAMA FC 2002”. 横浜FC. 2013年9月21日閲覧。

関連項目

外部リンク

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