乾信武
乾 信武(いぬい のぶたけ)は、土佐藩馬廻役、家禄300石。板垣退助の祖父。土佐の奇人(いごっそう)として知られる[1]。
凡例 乾 信武 | |
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時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 安永7年(1778年) |
死没 | 文化7年7月3日(1810年8月2日) |
改名 | 鹿次郎、左近兵衛、庄右衛門 |
戒名 | 乾山全貞居士 |
墓所 | 土佐国土佐郡薊野村板垣山 |
官位 | 従六位 |
主君 | 山内豊雍、山内豊興 |
藩 | 土佐藩 |
氏族 | 源姓乾氏 |
父母 | 父:乾正聰、母:林勝周の女 |
兄弟 | 信武、野本信照、女子 |
妻 | 谷村自熈の女 |
子 | 正成、女子 |
来歴
安永7年(1778年)、高知城下中島町の拝領屋敷にて、土佐藩士乾丈右衛門正聰の長男として誕生。母は林藤左衛門勝周の女[2]。諱は信武、幼名は鹿次郎。字は左近兵衛と称し、のち庄右衛門と改めた[2]。
天明6年2月15日(1786年3月14日)、藩主山内豊雍に惣領御目見え仰せ付けられる[2]。
寛政9年12月6日(1798年1月22日)、御火消方御用を以て、御家中・町方共、火用心番を仰せ付けられる[2]。
文化2年12月18日(1806年2月6日)、亡父正聰の跡目無相違下し置かれる[2]
文化3年8月28日(1806年10月9日)御使母衣(従六位)を賜わる[2]。
藤並大明神の御宮が建立される際、寄付金を差出した件について、文化5年6月4日(1808年6月27日)土佐藩主山内豊興が御満足に思召され、親しく御褒詞を賜わる[2]。
文化7年2月25日(1810年3月29日)役料銀7枚を成遣わされ、江戸詰めの勤務を仰せ付けられ、文化7年7月3日(1810年8月2日)江戸の藩邸にて卒去した[2]。享年33[3]。
家族
参考文献
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