丹波国

丹波国(たんばのくに)は、日本地方行政区分である令制国の一つ。山陰道に属する。

丹波国

-丹波国
-山陰道
別称 丹州(たんしゅう)[注釈 1]
所属 山陰道
相当領域 京都府中部、兵庫県北東部、大阪府の一部[注釈 2]
諸元
国力 上国
距離 近国
668郷
国内主要施設
丹波国府 1.(推定)京都府亀岡市
2.(推定)京都府南丹市
丹波国分寺 京都府亀岡市(丹波国分寺跡
丹波国分尼寺 京都府亀岡市
一宮 出雲大神宮(京都府亀岡市)

「丹波」の名称と由来

主に「丹波」が使われているが、古くは「たには」とも称し[1]、「旦波」[2]、「但波」[3]、「丹婆」[4]、「谿羽」[5]などの表記も見られる。藤原宮跡出土木簡では例外を除いて全て「丹波」なので、大宝律令の施行とともに「丹波」に統一されたと考えられている[6]

和名抄』では「丹波」を「太迩波(たには)」と訓む。その由来として『和訓栞』では「谷端」、『諸国名義考』では「田庭」すなわち「平らかに広い地」としているが、後者が有力視されている[7][8]。 また、国が分割される場合、都に近い順に「前・中・後」を付けて命名されることが一般的であるが、律令制以前の旧丹波が分割されたとき「丹波」の地名はそのまま残り「丹波国」となった[9]。現在の京丹後市峰山町に「丹波」という地名が残るが、これは旧郷名・旧郡名であり、旧丹波郡が丹波国の中心とも言われている[1]

領域

明治維新直前の領域は、現在の下記の区域に相当する。

歴史

古代

律令制以前は但馬丹後も含み丹波国造の領域とされ、現在の京都府の中部と北部、兵庫県の北部と中部の東辺に加え、大阪府の一部にも及んでいた。7世紀の令制国成立に伴い、但馬地域が分国し但馬国となり、また和銅6年(713年4月3日北部5郡が丹後国として分国、そして都に近い郡は「丹波国」となった[9]。現在では丹波・丹後但馬を「三丹」、但馬を含まない場合は「両丹[10]と総称することもある。 丹波国は大まかに言って亀岡盆地由良(福知山)盆地篠山盆地のそれぞれ母川の違う大きな盆地があり、互いの間を山地が隔てている。このため、丹波国は甲斐信濃尾張土佐のように一国単位で結束した歴史を持ちにくい性質があり、丹波の歴史を複雑化した。地域性として亀岡・八木園部南丹(口丹波)地方は山城摂津と、福知山綾部中丹は丹後・但馬と、篠山は摂津・播磨と、氷上は但馬・播磨に密接に係わる歴史を持った。

中世

丹波国は古くより京都平安京)の北西の出入口に当たる地理的条件から、各時代の権力者から重要視され、播磨や大和などと並んで鎌倉時代六波羅探題江戸時代京都所司代などの直接支配を受けた。それだけに、都の政局に巻き込まれやすい国でもあった。鎌倉時代末期には足利尊氏桑田郡篠村(現・京都府亀岡市篠町)で挙兵し、安土桃山時代にも丹波亀山城主の明智光秀本能寺の変を起こすといった時代変革の重要な舞台となった。さほど有名ではないが、戦国時代八上城波多野氏松田氏)は丹波諸豪族をまとめると、これを率いて山城など周辺諸国に進出したこともある。

室町時代は、おおむね細川京兆家の領国として、守護代内藤氏の下で栄えた。

安土桃山時代羽柴秀勝羽柴(小早川)秀秋前田玄以といった豊臣政権の親族などが亀山に置かれた。一方、福智山小野木重勝が封じられた。織田信長の弟である織田信包氷上郡柏原陣屋を構えた。

近世

江戸時代は一国を有する大名はなく、7丹波亀山藩園部藩綾部藩山家藩篠山藩八上藩)、柏原藩福知山藩)を有した。そのうち、丹波亀山藩と篠山藩は京都や大坂に近いため幕府の重責を担った譜代大名による移入封が多く、徳川幕府が重要視する藩の一つであった。

近代以後

廃藩置県後の明治4年11月2日1871年12月19日)の第1次府県統合により、桑田郡船井郡何鹿郡京都府に、天田郡氷上郡多紀郡豊岡県に分けられた。さらに、1876年(明治9年)8月21日の第2次府県統合により豊岡県は廃止され、天田郡が京都府に、氷上郡、多紀郡の二郡が兵庫県に編入されることとなった。その後、1958年昭和33年)4月1日の市町村合併により、京都府南桑田郡樫田村が大阪府高槻市に、京都府亀岡市西別院村の牧、寺田地区が大阪府豊能郡豊能町に編入されている。

近世以降の沿革

国内の施設

国府

和名抄』に「国府在桑田郡高低上一日下半日」とあることから、10世紀には桑田郡(現在の亀岡市周辺)にあったとされる。しかしながら国府の位置は確定できておらず、現在も諸説がある[11]

  • 桑田郡 案察使(亀岡市保津町)説
地名は按察使由来であり、按察使は大国の国司が兼任する例があり、国府または国司館跡と推定する説がある[12]
  • 桑田郡 三宅(亀岡市三宅町)説
地名が屯倉(みやけ = 三宅)由来で郡衙跡と推定されているが、国衙との説もある。
  • 桑田郡 千代川(亀岡市千代川町)説
10世紀までの候補地として有力で、千代川遺跡からは8世紀中葉から9世紀を中心とする建物跡や遺物が見つかっている。
  • 船井郡 屋賀(南丹市八木町屋賀)説
船井郡ながら桑田郡との郡境にあり、古代は桑田郡であったともみなせる。室町時代に描かれたとされる『丹波国吉富庄絵図』に、屋賀の地と考える場所に豪勢な建物と共に「国八庁」と記されている。また、集落内には国府という小字があり、丹波国総社の説のある宗神社も鎮座している[11]

また以上を踏まえ、千代川にあった国府が平安末から鎌倉初期にかけて屋賀に移転したとする説もある[11]

国分寺・国分尼寺

現在は同じ位置に護国山国分寺が立ち、法灯を伝承する。
通称「御上人林廃寺跡」。

神社

延喜式内社
延喜式神名帳』には、大社5座4社・小社66座65社の計71座69社が記載されている。大社は以下に示すもので、いずれも名神大社丹波国の式内社一覧を参照。
総社一宮
二宮以下はない。

安国寺利生塔

城郭

丹波国三大山城

地域

江戸時代の藩

  • 福知山藩:有馬家(6万石→8万石)→天領→岡部家(5万石)→稲葉家(4万5700石)→松平(深溝)家(4万5900石)→朽木家(3万2千石)
  • 丹波亀山藩:前田家(5万石)→岡部家(3万2千石)→松平(大給)家(2万2千石)→菅沼家(4万1千石)→松平(藤井)家(3万8千石)→久世家(5万石)→井上家(4万7千石)→青山家(5万石)→松平(形原)家(5万石)
  • 篠山藩:松平(松井)家(5万石)→松平(藤井)家(5万石)→松平(形原)家(5万石)→青山家(5万石→6万石)
  • 柏原藩:織田家(3万6千石)→天領→織田家(2万石)
  • 園部藩:小出家(2万9,800石→2万5千石→2万4千石)
  • 綾部藩:九鬼家(2万石→1万9,500石)
  • 山家藩:谷家(1万1千石→1万石)
  • 八上藩:前田家(5万石)→ 松平(松井)家(5万石)→廃藩(篠山藩に移封)

人物

国司

丹波守

鎌倉幕府

室町幕府

戦国大名

国人

武家官位としての丹波守

丹波国の合戦

現在

行政上の呼称

京都府内
  • 南丹または口丹(くちたん:全域丹波) - 亀岡市、南丹市(旧船井郡園部町・八木町・日吉町、北桑田郡美山町)、船井郡
  • 中丹(ちゅうたん:丹波と丹後にまたがる地域) - 福知山市、綾部市、舞鶴市(旧天田郡・旧何鹿郡・旧加佐郡)
兵庫県内
  • 丹波(兵庫丹波) - 丹波市、丹波篠山市

京都丹波・兵庫丹波

丹波の範囲は、現在の兵庫県側は丹波篠山市及び丹波市で、人口・面積ともに全体の2割弱。京都府側は亀岡市、南丹市、船井郡京丹波町、綾部市、福知山市であるため、兵庫県部分より京都府部分のほうが広大である。「兵庫丹波」「京都丹波」と分類するのは、丹波が2府県にまたがるためである。

そもそも丹波は、中央集権体制を進める明治政府の大久保利通らにより、但馬・丹後を含め似通った地域性を無視して2府県に分けられた。亀岡市及び旧船井郡園部町、八木町を除き府県庁所在地を含む京阪神から遠く離れ、両府県および国の施策からは重きを置かれずにいたので、高度経済成長期に一層の過疎化が強まった。なお、1871年(明治4年)11月2日1876年(明治9年)8月21日の約5年間は、桑田、何鹿、船井3郡および山城が京都府、氷上、多紀、天田3郡および但馬、丹後が豊岡県と言う構成であった。豊岡県を二分し、天田郡と丹後が京都府、氷上、多紀2郡と但馬が兵庫県に編入されることになったのは、旧出石藩士の桜井勉の発案であるが、当初桜井は豊岡県全域と飾磨県播磨)との合併を進言したようである。

「丹波市」名称問題

2004年(平成16年)11月、旧氷上郡が町村合併で周囲の反対を押し切る形で丹波市を新市名とした。これに対しては、反対論や批判もあった。兵庫県篠山市は、丹波の名を広めたのは旧丹波国全域であり、「丹波黒豆」や「丹波松茸」などの丹波ブランドを確立したと自負もあった[13]。これに加えて、京都府内の綾部市長や旧丹波町長の各首長からも反対や懸念の声が上がった[14]。古代から丹波国の中心であり続けた亀岡市長からは反対の声がなかった。この問題は毎日放送(MBSテレビ)関西ローカルニュース番組VOICE』や『神戸新聞』『京都新聞』をはじめとする関西の新聞・テレビ等の各メディアで大きく報じられた(竹内正浩は著書『日本の珍地名』(文春新書)で丹波市は「京都府をはじめ全国的な反発を買ったという“事件”」であったと書いている)。2004年当時、丹波町(京都府)が存在していたが、市と町の違いがあるので、競合そのものに法律上の問題はなかったが、丹波町が周辺の町と合併して京丹波町が発足した2005年(平成17年)10月11日をもって、丹波市・丹波町の並存は解消した。

「丹波篠山市」への改称

上記の「丹波市」問題に見られるように、篠山市では旧国名・丹波への愛着が強い。市名に旧国名を冠した「丹波篠山」は民謡デカンショ節』にも謳われ、黒豆やなど市内物産の販売のブランドとして活用し、観光協会も「丹波篠山観光協会」を名乗っている。「丹波市」問題に触発されるなどして市名を「丹波篠山市」に改称する機運が高まり、2018年11月18日の住民投票で賛成多数となり[15]、2019年5月1日に市名が「丹波篠山市」に改称された。

丹波と丹後・但馬

丹波と丹後をあわせて両丹(りょうたん)、丹波と但馬をあわせて但丹または丹但(たんたん)、丹波と丹後、但馬をあわせて三たん(さんたん)と呼ばれる。「柏原の厄除大祭は三たん一のお祭り」などと表現される。

なお丹但は、但馬と丹後に用いられる場合もある。

脚注

注釈

  1. 別称「丹州」は、丹後国とあわせて、または単独での呼称。
  2. 高槻市の一部、豊能郡豊能町の一部。

出典

  1. 『角川日本地名大辞典26 京都府 上巻』角川書店、1982年、936頁頁。
  2. 『古事記』の一部に記載(『世界大百科事典』(平凡社)丹波国項より)。
  3. 正倉院文書 』に記載(『京都府の地名』(平凡社)丹波国節より。)
  4. 『大同類聚方』に記載『角川日本地名大辞典26 京都府 上巻』角川書店、1982年、936頁頁。
  5. 『京都地名語源辞典』東京堂出版、2013年、368頁頁。
  6. 『世界大百科事典』(平凡社)丹波国項。
  7. 『京都府の地名』(平凡社)丹波国節。
  8. 『世界大百科事典』(平凡社)丹波国項、『国史大辞典』(吉川弘文館)丹波国項でも「田庭」によるとする。
  9. 『京都地名語源辞典』東京堂出版、2013年、370頁頁。
  10. 両丹とは両丹日日新聞(2019年8月10日閲覧)。
  11. 『日本歴史地名大系 京都府の地名』(平凡社)丹波国府跡項。
  12. 『京都府の地名』亀岡市 案察使項。
  13. 『神戸新聞』2003年7月17日付記事など。
  14. 『京都新聞』2003年7月5日付記事など。
  15. 【列島追跡】兵庫県篠山市、丹波篠山市へ/両隣に丹波、発信課題日本経済新聞』朝刊2018年11月26日(地域総合面)2018年11月26日閲覧。

参考文献

関連事項

丹波国に由来する自治体

関連項目

外部リンク

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