谷川岳
谷川岳(たにがわだけ)は群馬・新潟の県境にある三国山脈の山である。日本百名山のひとつ。周囲の万太郎山・仙ノ倉山・茂倉岳などを総じて谷川連峰という。
谷川岳 | |
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南東の天神尾根から | |
標高 | 1,977 m |
所在地 |
日本 群馬県利根郡みなかみ町 新潟県南魚沼郡湯沢町 |
位置 | 北緯36度50分14秒 東経138度55分48秒 |
山系 | 三国山脈 |
谷川岳 (日本) 谷川岳 (群馬県) 谷川岳 (新潟県) | |
プロジェクト 山 |
概要
谷川岳の頂部は二峰に分かれており、それぞれトマの耳(標高1,963m)、オキの耳(標高1,977m)[1]と呼ばれる。元来この山はトマ・オキの二つ耳と呼ばれ、谷川岳の名は隣の俎嵓(マナイタグラ)に与えられていた。しかし、国土地理院の5万分の1地図の誤記のために、トマ・オキの二つ耳が谷川岳と呼ばれるようになってしまった。トマの耳には薬師岳、オキの耳には谷川富士の別称がある。広義には、一ノ倉岳などの周囲の山域も含めて「谷川岳」と呼ぶこともある。
谷川岳は初級者から上級者向けまでの変化に富む登山コースを有し[2]、土合駅からのアクセスがよく取り付きまでに要する時間がさほど長くかからない位置にあり複数のルートが開拓されたため[1]、年間4万人を越える登山者が訪れる[2]。一方で危険個所の多さと急激な気候変化が影響し、遭難者の多い山としても知られる[2]。
一ノ倉沢などの谷川岳の岩場は、その険しさから剱岳・穂高岳とともに日本三大岩場の一つに数えられ、ロッククライミングの聖地となっている。山麓はスキーの聖地でもあり、谷川岳天神平スキー場は関東でも有名なスキー場である。
谷川岳ロープウェイが東麓から山稜付近(天神尾根)までを繋いでおり、冬場はスキー客と登山客が同じゴンドラで天神平を目指すことも少なくない。山稜の天神平駅のそばにはレストハウスがあり、簡単な食事も提供されている。
登山
気象の厳しさから標高1,500m付近が森林限界となり、その上からは笹原が広がり視界が開ける。このため、比較的低い標高(特に稜線付近)でも高山植物が観察できる。首都圏から近いこともあって多くの登山者が訪れている。
遭難事故の多くは一般登山道から離れた一ノ倉沢周辺で発生しているが、最も登りやすいとされる天神尾根ルートでも急激な気象の変化や、急斜面の続く箇所があり、森林限界以上でもあるなど、本格的な登山となるため、装備を整えてから挑むことが望ましい。
ルート(通常登山)
- 天神尾根ルート - 谷川岳ロープウェイの麓土合口駅から山頂天神平駅(標高1,319m)に上がったところが起点。天神平駅より天神峠ペアリフトに乗り、天神峠展望台(標高1,502m)から向かうルートもある。ロープウェイを利用しない場合や営業時間外の際は、その下の田尻尾根を歩く。
- 西黒尾根ルート - 途中「ラクダのコル」で巌剛新道と合流する。下山の難易度が高く初心者には不向きであるため、注意を促す看板が建てられている。
- 巌剛新道ルート - 登山口はロープウェイ・土合口駅よりさらに国道291号を上がった地点、マチガ沢付近にある。
- 谷川連峰縦走路(平標山 - 仙ノ倉山 - 万太郎山 - 谷川岳)
- 馬蹄形縦走路(谷川岳 - 一ノ倉岳 - 茂倉岳 - 七ツ小屋山 - 朝日岳 - 笠ヶ岳 - 白毛門)
ルート(ロッククライミング)
- 東尾根
- 一ノ倉沢・一ノ沢左稜
- 一ノ倉沢・一ノ沢
- 一ノ倉沢・一、二ノ沢中間稜
- 一ノ倉沢・二ノ沢
- 一ノ倉沢・滝沢リッジ
- 一ノ倉沢・滝沢本谷
- 一ノ倉沢・滝沢マイナースラブ
- 一ノ倉沢・滝沢第一スラブ
- 一ノ倉沢・滝沢第二スラブ
- 一ノ倉沢・滝沢第三スラブ
- 一ノ倉沢・滝沢ルンゼ状スラブ
- 一ノ倉沢・滝沢Aルンゼ
- 一ノ倉沢・滝沢Bルンゼ
- 一ノ倉沢・滝沢ドーム
- 一ノ倉沢・マッターホルン状岩壁
- 一ノ倉沢・2ルンゼ
- 一ノ倉沢・中央奥壁
- 一ノ倉沢・3ルンゼ
- 一ノ倉沢・4ルンゼ
- 一ノ倉沢・南稜
- 一ノ倉沢・烏帽子沢奥壁
- 一ノ倉沢・中央稜
- 一ノ倉沢・衝立岩正面壁
- 一ノ倉沢・コップ状岩壁
- 一ノ倉尾根
- 幽ノ沢中央壁
- 幽ノ沢右俣リンネ
- 幽ノ沢V字状岩壁
- 幽ノ沢左俣中央ルンゼ
- 石楠花尾根
- 堅炭岩
- 南面幕岩
周辺の山小屋
- 肩の小屋
- 蓬ヒュッテ
- 熊穴沢避難小屋
- 一ノ倉岳避難小屋
- 茂倉岳避難小屋
- 清水峠避難小屋
- オジカ避難小屋
- 大障子避難小屋
ビュー・ポイント
遭難
谷川岳の標高は2,000mにも満たないが、急峻な岩壁と複雑な地形に加えて、中央分水嶺のために天候の変化も激しく、過去の遭難者の数は群を抜いて多い。ただし、遭難者の多くは一ノ倉沢などの岩壁からの登頂によるもので、一般的なルート(天神尾根)はほとんど危険な箇所もなく遭難者も少ない。
記録に残る谷川岳登頂は1920年(大正9年)に藤島敏男ら3名が茂倉岳・一ノ倉岳を経由して登頂した(帰途は天神尾根経由)のが最古とされる[3]。その6年後の1926年(大正15年/昭和元年)に大島亮吉が武尊山の山頂から見えた谷川岳の岩壁に心惹かれて、早速翌年に谷川岳のマガチ沢の完登と一ノ倉沢・幽ノ沢の試登を行い、「(谷川岳の岩壁は)總ては尚研究を要すべし、近くてよい山なり」[4]と述べたことで山岳界にその名を知られるようになった[5]。1931年(昭和6年)に上越線の上越国境区間が全通し、土合駅などが開業、登山アクセスが飛躍的に改善され、谷川岳が東京からの夜行列車を利用した日帰りが可能な近さと剱岳・穂高岳に勝るとも劣らぬ急峻な岩壁が多くの社会人登山家から好まれるようになり、クライマーを中心とした「ブーム」が1960年代まで続いた[6]。こうしたことが遭難事件の多さにつながっていると考えられる。
死者数のギネス記録
前述の通り、上越線が開通した1931年(昭和6年)から統計が開始された谷川岳遭難事故記録によると、2012年(平成24年)までに805名の死者が出ている[7]。世界各国の8000メートル峰14座の死者を合計しても637名であり、この飛び抜けた数は日本のみならず「世界の山のワースト記録」としてギネス世界記録に記載されている[8][1]。
こうしたところから、「魔の山[8][1]」「人喰い山」「死の山」とも呼ばれる。遭難の防止のために群馬県谷川岳遭難防止条例が制定されている。
事例
1935年(昭和10年)9月15日に幕岩を登攀していた東京
1943年(昭和18年)9月8日に一ノ倉沢で2人の登山者が絶壁の岩場で遭難死。しかし遭難場所が分からず行方不明として処理され、遺体はそのまま岩場に放置された。30年後の1973年(昭和48年)5月13日に、偶然この場所にたどり着いた登山者が白骨化した遺体を発見。ポケットに残されていた10銭硬貨や過去の記録から、1943年の遭難者と判明した。5月25日に山岳クラブと地元警察により、30年ぶりに下山して親族の元に帰った。
1960年(昭和35年)には、岩壁での遭難事故で宙吊りになった遺体に救助隊が近づけず、災害派遣された陸上自衛隊の狙撃部隊が一斉射撃してザイルを切断、遺体を崖下へ落下させて収容した(谷川岳宙吊り遺体収容)[1]。
谷川岳が舞台に登場する作品
脚注
出典
- 松倉一夫『ネイチャーハイク入門』JTBパブリッシング、146頁。
- 谷川岳登山の留意点 - 群馬県、2017年4月閲覧
- 羽根田治『山岳遭難の傷痕』山と渓谷社、2020年 P164.
- 慶應義塾大学山岳部部誌『登高行』(1929年7月発行)より。
- 羽根田治『山岳遭難の傷痕』山と渓谷社、2020年 P164-165.
- 羽根田治『山岳遭難の傷痕』山と渓谷社、2020年 P165-167.
- 戦前、戦後に於ける谷川岳の遭難について - 草加山の会、2017年4月閲覧
- 『クルマで行く山あるき 関東周辺 大人の遠足BOOK』JTBパブリッシング、2013年3月、93頁。ISBN 9784533090448。
- 春日俊吉「光栄ある敗北(谷川岳幕岩)」『山の遭難譜』二見書房、1973年、P111-118.
- 杉本光作『私の山 谷川岳』中央公論社(中公文庫)、1983年、pp.189-205.
- 杉本光作『私の山 谷川岳』中央公論社(中公文庫)、1983年、pp.214-218.
- 杉本光作『私の山 谷川岳』中央公論社(中公文庫)、1983年、pp.248-283.
関連項目
外部リンク
- 谷川岳の登山コース - 谷川岳ロープウェイ
- みなかみ町 谷川岳登山指導センター
- 谷川岳登山の留意点 - 群馬県
- まるごとみなかみ 谷川岳