ビアフラ戦争

ビアフラ戦争(ビアフラせんそう、1967年7月6日 - 1970年1月12日)は、ナイジェリアイボ人を主体とした東部州ビアフラ共和国として分離・独立を宣言したことにより起こった戦争である。ナイジェリア内戦とも呼ぶ。ビアフラが包囲され食料・物資の供給が遮断されたため、飢餓が国際的な問題となった。

ビアフラ戦争

1967年6月の時点でのビアフラ共和国
1967年7月6日 - 1970年1月15日
(2年6ヶ月9日間)
場所ナイジェリア南部
結果

ナイジェリアの勝利

  • ナイジェリアによるビアフラの再併合
衝突した勢力
ナイジェリアの旗 ナイジェリア
アラブ連合共和国の旗 アラブ連合共和国(航空支援)
援助国:
イギリスの旗 イギリス
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国[1]
ニジェールの旗 ニジェール
シリアの旗 シリア
サウジアラビアの旗 サウジアラビア
アルジェリアの旗 アルジェリア
ブルガリアの旗 ブルガリア
 ハンガリー
ソマリアの旗 ソマリア
セネガルの旗 セネガル
コンゴ共和国
シエラレオネの旗 シエラレオネ
エチオピアの旗 エチオピア帝国[2]
イスラエルの旗 イスラエル[3]
ビアフラ共和国の旗 ビアフラ共和国
ベニン共和国
援助国:
フランスの旗 フランス[4]
中華人民共和国の旗 中華人民共和国[5]
ドイツの旗 西ドイツ[4]
チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア
イスラエルの旗 イスラエル (1968年後)[6]
ポルトガルの旗 ポルトガル
南アフリカの旗 南アフリカ共和国
タンザニアの旗 タンザニア[7][8][9]
ガボンの旗 ガボン[4]
コートジボワールの旗 コートジボワール[4]
ハイチの旗 ハイチ[4]
ローデシアの旗 ローデシア
バチカンの旗 バチカン[10][11][12]
スペインの旗 スペイン[13][10]
指揮官
ナイジェリアの旗 ヤクブ・ゴウォン
ナイジェリアの旗 ムルタラ・ムハンマド
ナイジェリアの旗 ベンジャミン・アディクニェ
ナイジェリアの旗 オルシェグン・オバサンジョ
ナイジェリアの旗 セオフィラス・ダンジュマ
ナイジェリアの旗 イブラヒム・ババンギダ
ナイジェリアの旗 アイザック・アダカ・ボロー  
ビアフラ共和国の旗 チュクエメカ・オジュク
ビアフラ共和国の旗 フィリップ・エフィオング
ビアフラ共和国の旗 アレクサンダー・マデイエボー
ビアフラ共和国の旗 アルバート・オコンクウォ
ビアフラ共和国の旗 テイモシー・オウアザグウェ 
ビアフラ共和国の旗 ヴィクター・バンジョー死刑
ビアフラ共和国の旗 ロルフ・スタイナー
ビアフラ共和国の旗 ジョセフ・アクフジエ
ビアフラ共和国の旗 タフィー・ウィリアムズ
ビアフラ共和国の旗 ヤン・ズムバッハ
戦力
120,000人(1970年) 30,000人(1970年)
被害者数
兵士の死者25,000〜50,000人 兵士の死者10,000〜25,000人
100万〜300万人の民間人が死亡

概要

ビアフラの封鎖によって引き起こされた飢饉のため、栄養失調となった子供。ビアフラに対する世界的な同情を喚起した。

厳しい飢餓と、栄養不足から来る病気北部州における虐殺により、少なくとも150万人を超えるイボ人が死亡した。

ナイジェリアには北部のイスラム教徒主体のハウサ人、西部のイスラム/キリスト教混合のヨルバ人、東部のキリスト教主体のイボ人の三大民族が、その他の多くの少数民族ともに存在した。イギリス植民地時代には、イボ人は比較的教育レベルが高く、下級の官吏軍人を多く輩出し、また商才もあり「黒いユダヤ人」と呼ばれることもあった。

1960年にナイジェリア連邦として独立後は、東部に原油が発見され、イボ人地域は工業化が進み他地域との経済格差は広がっていた。北部のハウサ人政治家はヨルバ人の一部政治家と連携し、連邦を支配しようとした。

1966年、軍のイボ人主体の中堅将校が、クーデターを起こし、北部系の政治家、高級軍人を殺害したが、同じイボ人出身の軍司令官であるジョンソン・アグイイ=イロンシ将軍に鎮圧された。イロンシ将軍は、臨時政府を作り、イボ人を多く登用した。しかし、臨時政府が連邦制廃止を打ち出した後、北部ではイボ人に対する反発が強まり、数千人のイボ人が殺害され、イロンシ将軍も、ハウサ人の下級将校の襲撃を受けて殺害された。北部出身のゴウォン中佐軍事政権を握り、イボ人出身の軍人を殺害・追放した。北部におけるイボ人への迫害は一層強くなり、1万を越えるイボ人が殺害され、100万人近い難民東部州に逃れてきた。東部州の軍政知事だったチュクエメカ・オドゥメグ・オジュク中佐は、州内の連邦資産を接収し、税収を全て東部州で管理することにし、独立性を強めた。これに対し、連邦は東部州の分割を狙ったため、1967年5月30日オジュク中佐は、「ビアフラ共和国」として東部州の独立を宣言した。

直ちに、連邦軍は攻撃を開始したが[14]、ビアフラ軍の士気も高く、戦況は膠着状態を示した。ビアフラにはフランス南アフリカ等が支援したが、大部分の国はビアフラに同情する一方で消極的ながら正規政府である連邦を支持。特に旧植民地の分割化を望まないイギリスと、アフリカへの影響力強化を狙うソ連は、積極的に連邦を支援した。また、ビアフラ側で戦った少数の白人傭兵が、後々のアフリカ各地の紛争にも顔を出しており、勇名をはせた者も悪名で鳴らした者もいる。また、連邦軍でも東ドイツから派遣されたパイロットや、西欧からの傭兵が採用されていた。

1968年に入ると、連邦軍がビアフラを包囲し、食料、物資の供給を遮断したため、ビアフラは飢餓に苦しむことになった。各国の記者がさかんに報道したため、赤十字などの支援は行われたが、早期決着を目指す連邦側がそれらの救援も妨害し、ビアフラの飢餓は危機的な状況に陥った。

弾薬、装備の不足も深刻になり、1970年1月9日、ついにオジュク将軍はコートジボワールに亡命し、ビアフラは降伏し、そのまま崩壊に向かった。

他のアフリカ内戦の例と比較して、ハウサ人による報復や虐殺は少なく、国民和解の方針が採られた。しかし、少なくとも150万人以上の人間が、飢餓、病気、戦闘によって死亡したとされている。当時、各国の新聞に掲載された「骨と皮にやせ細っているが、お腹だけが異様に膨らんでいる子供達」の姿は世界中に衝撃を与え、ビアフラという言葉は飢餓と同義語として使われるようになった。

脚注

  1. United States Department of State: The Office of Electronic Information, Bureau of Public Affairs (2005年10月25日). Nigerian Civil War”. 2001-2009.state.gov. 2021年3月2日閲覧。
  2. Sadleman, Stephen (2000). The Ties That Divide. p. 86. ISBN 9780231122290. https://books.google.com/books?id=_8UzCgAAQBAJ&q=ethiopia+support&pg=PA87 2018年6月8日閲覧。
  3. Israel, Nigeria and the Biafra Civil War, 1967–1970
  4. The Biafran War, Nigerian History, Nigerian Civil War”. 2008年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年11月20日閲覧。
  5. Diamond, Stanley (2007). “Who Killed Biafra?”. Dialectical Anthropology 31 (1/3): 339–362. doi:10.1007/s10624-007-9014-9. JSTOR 29790795.
  6. "Biafran Airlift: Israel’s Secret Mission to Save Lives." Press, Eitan. United With Israel. www.unitedwithisrael.org Published 13 October 2013. Accessed 13 January 2017.
  7. Malcolm MacDonald: Bringing an End to Empire, 1995, p. 416.
  8. Ethnic Politics in Kenya and Nigeria, 2001, p. 54.
  9. Africa 1960–1970: Chronicle and Analysis, 2009, p. 423.
  10. Hurst, Ryan (2009年6月21日). Republic of Biafra (1967–1970)”. 2020年10月23日閲覧。
  11. Fellows, Lawerence (1970年1月14日). NIGERIAN REJECTS HELP FROM GROUPS THAT AIDED BIAFRA”. The New York Times. 2021年3月1日閲覧。
  12. Chukwuemeka, Kenneth (December 2014). “Counting the Cost: The Politics of Relief Operations in the Nigerian Civil War, A Critical Appraisal”. African Study Monographs 35 (3&4): 138. https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/193254/1/ASM_35_129.pdf.
  13. There's A Riot Going On: Revolutionaries, Rock Stars, and the Rise and Fall of '60s Counter-Culture, 2007. p. 213.
  14. “40年前に終結のナイジェリア「ビアフラ戦争」、教育現場はいまだに「腫れ物にさわる」扱い”. AFPBB News. (2008年5月22日). https://www.afpbb.com/articles/-/2394354 2020年12月9日閲覧。

関連項目

ビアフラ戦争取材のBBC特派員としてナイジェリア入りしたフォーサイスはビアフラに同調、ビアフラと同じイボ人が居住する赤道ギニアをビアフラ人の安息の地とするため1972年に、処女作『ジャッカルの日』の印税収入を用いて傭兵を雇いマシアス・ンゲマ政権転覆を謀ったが、スペインで傭兵隊長が逮捕され失敗。第3作『戦争の犬たち』はこの経験を活かして執筆されたと言われる。

外部リンク

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