ドン・マネー

ドナルド・ウェイン・マネー(Donald Wayne Money、1947年6月7日 - )は、アメリカ合衆国ワシントンD.C.出身の元プロ野球選手内野手)。1984年春のみ近鉄バファローズでプレーした。

ドン・マネー
Don Money
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ワシントンD.C.
生年月日 (1947-06-07) 1947年6月7日(76歳)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
190 lb =約86.2 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手二塁手遊撃手
プロ入り 1965年
初出場 MLB / 1968年4月10日
NPB / 1984年3月31日
最終出場 MLB / 1983年9月17日
NPB / 1984年5月6日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

経歴

1965年、ドラフト外でピッツバーグ・パイレーツに入団。

1968年フィラデルフィア・フィリーズへ移籍。同年にメジャー初昇格。

1969年遊撃手のレギュラーに定着。

1970年からは三塁手にコンバートされた。

1973年ミルウォーキー・ブルワーズに移籍。1973年から1974年にかけて88試合・261守備機会無失策の新記録を樹立。1974年および1976年1978年にはMLBオールスターゲームに出場した。

1983年をもって現役引退へ傾きかけていたが、日本の近鉄バファローズから入団の誘いを受ける[1]。それまで日本の野球の事は全く知らなかったため、日本球界でプレーした経験のある選手たちから話を聞いたところ、前年に近鉄に在籍のマイク・エドワーズは「日本の野球はメジャーとの野球とそう変わらない。また日本でプレーすることは本当に良い経験になる」と答えたという[1]。マネーは日本球界入りを決断し、1984年1月22日に近鉄と年俸9600万円、トレードマネー7千万円、2年契約の大型契約で入団が決まった[1]。2月に家族全員を連れて来日し、球団から用意された兵庫県神戸市のマンションに自宅を構えた。

ところが、マネーは来日早々、家族ともども生活環境の激変に悩まされることになる。マネーは1981年に起きたストライキでメジャーの試合が中止となりその代替としてアメリカのテレビで放送された、満員の観衆と人工芝のグラウンドである後楽園球場での読売ジャイアンツの試合を見て、これを日本球界の一般的なイメージとして捉えていた。だがマネーが入団した近鉄は、観衆が2,3千人だけのことも珍しくない不人気球団で、本拠地の藤井寺球場日生球場も、ロッカールームは設備がメジャーと比べてはるかに劣悪であり、これらを目の当たりにして眉をしかめた[2]

また、球団が用意した兵庫県神戸市のマンションは手狭で汚く、部屋ではゴキブリが出るなど粗末な居住環境であった。自宅の近所には英語の話せる住人やアメリカ人はおらず、家族全員日本語が話せないために、妻は買い物にも不自由し、相談相手がいないなど不便な生活を強いられノイローゼ気味になってしまう。また長女は、通学を始めた日本の学校はアメリカよりも勉強が難しいことに悩んだほか、自宅の神戸市から藤井寺球場まで通った際には何度も迷子になり、激しいホームシックを訴えた[2]

こうして、マネーも次第に家族のためにアメリカへの帰国を考えるようになり、5月に入ると、球団に対し「家族が重度のホームシックにかかり帰国を希望している」として退団を申し入れた[2]。球団はマネーの申し入れに慌てて、マンションから庭付きの住宅への転居[2]、地元ゲームでの車の送迎などの待遇改善の提示や[2]、入団の仲介に当たった駐米スカウト広田順を使者とする[3]など、再三にわたり説得に努めた。だが、「家族のホームシックではどうしようもない」として、説得を断念し、入団僅か3か月でマネーの退団を認めることになった[4]

近鉄は5月7日に記者会見し、マネーの退団を発表した[4]。マネーはこの席で、退団の理由について「ホームシックにかかっている家族のことを考えると100%の力が出せないし、いろいろ考えて退団を決意した。日本人にはわからないかもしれないが、家族の問題は私にとっては重大だった」[4]と述べた。またアメリカへ戻ってもメジャー復帰はないと明言し、「近鉄の優勝を願っている」とも述べた[4]

また、リチャード・デュランも「マネーが帰るなら、私一人日本に残ってプレーするのは嫌だ」とマネーに同調して、「母親の看病」を理由に退団した。近鉄は一気に2人も主力打者を失う事態となった。近鉄はマネー、デュランに代わる外国人選手を探し、その結果、入団したのがリチャード・デービスマーク・コーリーであった。デービスは1988年途中に退団するまでの5シーズンに渡って、主力打者としてチームを支えた。

スポーツ紙はマネーの退団の理由として、「メジャーと比べてはるかに劣る藤井寺球場のロッカールームに音を上げた」などと大きく報道し[5]、これによって日本の各球場の劣悪なロッカールームが取り沙汰されるようになった。

マネーは帰国後、2009年から2011年までミルウォーキー・ブルワーズ傘下の3Aナッシュビルで監督を務めた。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1968 PHI 415131320052010021040.231.333.385.718
1969 12750345041103222614742136343518316.229.296.327.622
1970 12050744766132254142076647374367687.295.361.463.824
1971 1214824394098228715738414531103806.223.276.358.634
1972 15259053654119162151845257744152928.222.278.343.621
1973 MIL 14562755675158282112236122511453335312.284.347.401.748
1974 15970962985178323152616519610662528011.283.346.415.761
1975 10944540558112161151754379423113511.277.331.432.763
1976 117498439511171841217962656647205011.267.333.408.741
1977 152644570861592832526883854657277017.279.348.470.819
1978 1375885188815230214228543014148277010.293.361.440.801
1979 924023505283201612338106440024710.237.316.351.667
1980 863362893974171171444600604001364.256.348.498.847
1981 602111851740702531400331901271.216.288.286.575
1982 963132754078143161465502503221384.284.360.531.891
1983 4312811451750125800121110173.149.220.219.440
1984 近鉄 291251001726208522300002302105.260.408.520.928
MLB:16年 1720699862157981623302361762525729805190536004540866121.261.328.406.734
NPB:1年 291251001726208522300002302105.260.408.520.928
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号

  • 15 (1984年)

記録

MLB
NPB

出典

  1. 週刊ベースボール1984年2月13日号「話題の戦力クロマティ(巨人)とマネー(近鉄) こんな男だ!」p32-p35
  2. 日刊スポーツ1984年5月5日4面「近鉄マネー退団申し入れ なじめぬ野球環境 家族もホームシックに」
  3. 日刊スポーツ1984年5月7日3面「帰らないで!マネー引き留め 近鉄大慌て 大砲退団危機」
  4. 報知新聞1984年5月7日3面「近鉄マネー正式決定 説得工作実らず 意志固く」
  5. 週刊ベースボール1984年6月4日号「モノクロ・グラビア 狭くて汚い、これが噂のロッカー・ルーム マネーの発言は我がまま、それとも常識?」

関連項目

外部リンク

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