ゲーベン追跡戦

ゲーベン追跡戦(ゲーベンついせきせん)とは、第一次世界大戦勃発直後の1914年7月末から8月上旬にかけて、地中海で生起した軍事行動である[注釈 2]地中海戦隊に配備されていたドイツ帝国海軍巡洋戦艦1隻と小型巡洋艦1隻がイギリス海軍の追跡を受け、中立国であったオスマン帝国コンスタンティノープルに入港した[3]ロシア南下政策に対してオスマン帝国は親独傾向を強めており[4]、8月2日には同盟を締結していた[5][6]。この状況下、ダーダネルス海峡を通過してトルコ領海に辿り着いたドイツ艦2隻を、オスマン帝国はドイツ帝国から受け入れ、乗組員ごとオスマン帝国海軍に編入した[7][8]。ドイツ艦2隻の追跡劇と編入によりオスマン帝国と大英帝国ロシア同盟国)の関係は悪化し、同年10月末にオスマン帝国が中央同盟国側として参戦する要因となった[9][10]

ゲーベン追跡戦

ゲーベンの逃走を示した図
戦争第一次世界大戦
年月日1914年7月28日 - 8月10日
場所地中海
結果ゲーベンブレスラウの逃亡成功[注釈 1]
交戦勢力
イギリスの旗 イギリス
フランスの旗 フランス
ドイツの旗 ドイツ帝国
指導者・指揮官
アーチボルド・バークレー・ミルン
アーネスト・トラウブリッジ
オーギュスタン・ブエ・ド・ラペレール
ヴィルヘルム・スション
戦力
巡洋戦艦3
装甲巡洋艦4
軽巡洋艦4
駆逐艦14
巡洋戦艦1
軽巡洋艦1
損害
なし 船員4人

概要

第一次バルカン戦争を受けて1912年11月にドイツ帝国海軍が新編した地中海戦隊 (Mittelmeerdivision) に、モルトケ級巡洋戦艦2番艦ゲーベン (SMS Goeben) と[11]マクデブルク級軽巡洋艦ブレスラウ (SMS Breslau) が配備された[12][注釈 3]。 1914年7月末に第一次世界大戦が勃発すると、イギリス海軍地中海艦隊 (Mediterranean Fleet) はドイツ地中海戦隊の2隻(ゲーベン、ブレスラウ)を捕捉しようとした[15][注釈 4]。 ドイツ艦2隻はイギリス地中海艦隊の追跡から逃れ、ダーダネルス海峡を通過して、8月16日にオスマン帝国コンスタンティノープルに入港する[注釈 5]。 イギリス側はインヴィンシブル級巡洋戦艦を主力とする優勢な艦隊でドイツ艦2隻を追跡したが、通信の遅れによる情報の錯綜と上層部のあいまいな指示などが災いして混乱し、結局ドイツ艦隊を逃してしまった[注釈 6]

当時のオスマン帝国では、南下政策によりバルカン半島に介入するロシア帝国に対抗するため、3B政策を採るドイツ帝国接近していた[4]オスマン帝国軍はドイツ軍の軍事顧問団を受け入れていた[19][20]。これに対しオスマン帝国海軍イギリス海軍の影響下で海軍力を増強しており、イギリスの民間企業に超弩級戦艦を発注する[21]。ところが世界大戦勃発と共に完成間近の戦艦を2隻とも接収され[11]、トルコ国内で反英感情が高まっていた[22][注釈 7]。 まさにその時に、ドイツ帝国海軍の有力な軍艦2隻が到着した事になる[5]。仮にゲーベンとブレスラウがイギリス地中海艦隊の追跡から逃げられず、オスマン帝国領土に辿りつかなかったら、トルコ戦艦2隻(エリン、エジンコート)接収事件は忘れられたかもしれなかった[9]。 秘密裏に軍事同盟を結んでいたオスマン帝国はドイツ艦2隻を退去させたり武装解除せず、ドイツ帝国から購入して将官や乗組員ごとオスマン帝国海軍に編入した[5][注釈 8]。 ゲーベンは[26]ヤウズ・スルタン・セリム (Yavuz Sultan Selim) と改名した[27]。ブレスラウは、ミディッリ (Midilli) と改名した[28]

一連の事件(土獨同盟、英国のトルコ戦艦接収、トルコのドイツ艦編入)は、中東の石油利権やスエズ運河の安定的支配を求めてオスマン帝国の分割を狙うイギリスと、親独傾向を強めていたオスマン帝国の関係を悪化させた[29]。同年10月31日から11月初旬にかけてオスマン帝国は三国協商各国(ロシア帝国、イギリス、フランス)に宣戦を布告して国交を断絶[30]中央同盟国陣営として第一次世界大戦に参入した[注釈 9]

背景

ゲーベンとブレスラウの写真。

不凍港を求めて南下政策を採るロシア帝国[32]大日本帝国との日露戦争海軍の主力艦隊(バルチック艦隊太平洋艦隊)を失った[33]極東方面での進出をしばらく断念したロシアの眼は、再び中央アジアに向けられる[34]ロシアの歴史ロシアとトルコの関係ロシアとトルコの戦争史)。その戦略目標はコンスタンティノープルイスタンブール)の占領と、ダーダネルス海峡およびボスポラス海峡の掌握である[35]衰退著しいオスマン帝国に独力で対抗できる力はなく[36]イギリスフランスはロシアの同盟国なので頼りにならず[注釈 10][注釈 11]、オスマン帝国はドイツ帝国の支援を仰いだ[38]ドイツ外交政策の歴史[40]オスマン帝国軍ドイツ帝国陸軍協力を得て近代化を進めた[4][41]

陸軍の親独傾向に対しオスマン帝国海軍イギリス海軍支援を受け[42]、イギリス海軍軍人を艦隊指揮官(コモンドン・ド・ラ・フロット)に任命していた[43][注釈 12]。オスマン帝国はイギリスの民間軍事企業にレシャディエ級戦艦の建造を発注する[注釈 13]。 さらにブラジル南米建艦競争によりイギリスに発注したが、諸事情により売却した弩級戦艦リオデジャネイロ (Rio de Janeiro) を購入し、スルタン・オスマン1世 (Sultan Osman-ı Evvel) と命名した[45]前弩級戦艦を基幹とするロシア帝国海軍の黒海艦隊にとって、オスマン帝国海軍の新型戦艦は大きな懸念材料となった[46]

第一次バルカン戦争バルカン戦争)の勃発により、ドイツ帝国は1912年11月に地中海戦隊 (Mittelmeerdivision) を新編し[47]、同年に竣工したばかりの最新鋭艦2隻(巡洋戦艦ゲーベン、軽巡洋艦ブレスラウ)を地中海に配備した[注釈 3]。最初の戦隊司令官はコンラッド・トラムラー少将であった。ドイツ地中海戦隊は、地中海で砲艦外交を展開した[48]。ただしドイツ帝国は地中海に植民地や自国の基地を保有していないので、ドイツ地中海戦隊の艦艇は友好国(イタリア王国オーストリア=ハンガリー帝国)の港湾施設や造船所を借りて補給や修理をしなくてはならなかった[49]。また本格的修理をする場合は、ドイツ本国に戻る事も検討されていた[49]

1913年6月に第二次バルカン戦争が勃発したあと、10月に新任司令官ヴィルヘルム・スション少将が着任した[注釈 14]。戦時における役割は、アルジェリアからフランスへの兵員輸送の妨害である[51]イタリア王立海軍 (Regia Marina) とオーストリア=ハンガリー帝国海軍 (Császári és Királyi Haditengerészet) がドイツ地中海戦隊に協力し、共同で作戦を実施する計画を準備した[51]

一方、イギリスも1914年には地中海艦隊を改編、戦艦6隻を本国に戻し、そのかわり巡洋戦艦2隻を編入した。これにより地中海のイギリス巡洋戦艦は3隻(インドミタブルインディファティガブルインフレキシブル)となり[52]、ドイツ地中海戦隊(ゲーベン、ブレスラウ)を牽制した[53]。さらにフランス海軍地中海艦隊を考慮に入れると、ドイツ地中海戦隊は勝負にならないほど劣勢であった[51]

開戦直後

1914年7月28日オーストリア・ハンガリー帝国と、汎スラヴ主義を掲げるロシア帝国の影響下にあったセルビアとの間で戦争が勃発した[54]。当時のブレスラウはアルバニア内乱問題に対処するため[55]、イギリス海軍の戦艦キング・エドワード7世 (HMS King Edward VII) などと共にドラッツォ沖合に停泊していた[56]。イギリス地中海艦隊は麾下艦艇に対しマルタ集結を下令しており、キング・エドワード7世もブレスラウに挨拶することなく出港していった[57]。8月1日、ブレスラウはイタリア半島南部のブリンディジに急行してカール・デーニッツ(通信長)を降ろし、石炭を積んだ汽船を手配させた[58]。ブレスラウはドラッツォに残していた分遣隊を収容するため、再び出港した[58]

当時のゲーベンはボイラーに故障を抱えており、姉妹艦モルトケ (SMS Moltke) と交代してドイツ本国に帰る予定だった[59]。だが地中海情勢のため帰国できず、アドリア海ポーラで機関の修理中であった[注釈 15]アドリア海に閉じ込められないためにスションは修理を急がせたが、結局修理が完了していない状態で出航した。8月1日にスションはイタリア王国ブリンディジに到着したが、イタリアは中立であることを理由にして給炭を行わなかった。ゲーベンは、デーニッツらを回収して出港した[60]。ゲーベンはタラントでブレスラウと合流後メッシーナへ向かい、そこでドイツ商船から石炭を補給した[61][注釈 16]

一方、7月31日にイギリスの海相ウィンストン・チャーチルは地中海艦隊の指揮官アーチボルド・バークレー・ミルン中将に対し、地中海を横切ってフランス第19軍団を運んでいるフランスの船団を護衛するよう指示した。この時、英領マルタを拠点とする地中海艦隊は巡洋戦艦3隻(インフレキシブルインディファティガブルインドミタブル)、装甲巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻および14隻の駆逐艦からなっていた。次席指揮官はアーネスト・トラウブリッジ少将であった[62]。ミルン中将はマルタにとどまり、トラウヴリッジ少将の装甲巡洋艦がオトラント海峡でドイツ地中海戦隊とオーストリア艦隊の合流を阻止しようという企図であったという[63]

8月1日、ミルン提督はマルタにイギリス地中海艦隊を集結させた[57]。翌日、ミルンは、オーストリア海軍の出撃に備えてアドリア海の監視を続ける一方、巡洋戦艦2隻でゲーベンを追跡するよう指示を受けた。ミルンはこれに背き、インドミタブル、インディファティガブルをトラウブリッジ少将麾下の巡洋艦戦隊と共にアドリア海に向かわせ、軽巡洋艦チャタムメッシーナ海峡へゲーベン捜索に向かわせた。しかし、8月3日朝の時点で既にドイツ艦隊はメッシーナを離れて西へ向かっており[64]イギリス海軍本部はドイツ艦隊の大西洋脱出阻止のため、イギリス巡洋戦艦2隻をジブラルタルに派遣した[63]

最初の接触

連合国陣営のイギリス地中海艦隊とフランス地中海艦隊に対して、中央同盟国陣営のドイツ地中海戦隊は巡洋戦艦1隻と軽巡洋艦1隻しかなく、ドイツ艦隊の作戦にはイタリア海軍とハンガリー=オーストリア海軍の協力が不可欠だった[51]。8月2日、ドイツ地中海戦隊はメッシーナに到着したが、イタリア艦隊もオーストリア艦隊も非協力的だった[65]。さらにイタリアはドイツ艦の給炭や通信を妨害するなど、敵対国のようにふるまった[65]。ドイツ本国からも明確な命令は無く、スション提督は連合国の機先を制してアフリカ沿岸での作戦を開始することにした[65]アルジェリアの港ボーヌ(現在のアンナバ)とフィリップヴィル(現在のスキクダ)の攻撃を計画し、ドイツ地中海戦隊(ゲーベン、ブレスラウ)は2日夜にメッシーナを出撃した[64]。そしてゲーベンがフィリップビルへ、ブレスラウがボーヌへ向かった。

8月3日午後6時、西に向かって航行中にスションはドイツ帝国がフランスに宣戦布告したという報告を受けた。4日朝早く、スションは司令長官であるアルフレート・フォン・ティルピッツ提督から「8月3日、トルコと同盟が結ばれた。直ちにコンスタンティノープルへ向かえ」という命令を受けた[66]。機関部に故障を抱えていたゲーベンは最大速力が出せず、石炭消費量も多くなっていたので、アルジェリア沿岸からコンスタンティノープルに直行できる状態ではなかった[59]。そこで予定通りアフリカ沿岸のフランス港を砲撃したあとメッシナで石炭補給をおこない、コンスタンティノープルに向かうことにした[59]。ドイツ地中海戦隊2隻はそれぞれ夜明けに砲撃を行い、それから給炭のためメッシーナに向かった。

戦争前のイギリスとの協定により大西洋沿岸防衛をイギリスに任せていたフランスは、全艦隊を地中海に集中させることができた。フランス艦隊の3つの部隊(それぞれ大型艦4~6隻、巡洋艦と駆逐艦部隊)が輸送船団の護衛に当たっていた[62]。しかしフランス地中海艦隊は、ドイツ艦がオランメルス・エル・ケビール)やアルジェを脅かすことを怖れ、そちらの方を重視した[64]。ドイツ艦隊がさらに西に向かうことも予想されたにもかかわらず、輸送船団の防御を強固とするため、フランスのオーギュスタン・ブエ・ド・ラペレール中将はゲーベン捜索に1隻の艦艇も派遣しなかった。そのためドイツ艦隊は妨害を受けずに東に向かうことができた。

8月4日午前9時30分~10時頃、ゲーベン(スション提督)とブレスラウが会合した直後にイギリス海軍の巡洋戦艦2隻(インドミタブル、インディファティガブル)が接触した[66]。英巡戦2隻はドイツ艦隊の大西洋脱出阻止のため、ジブラルタルにむかう途中であった[63]。フランスと異なり、この時イギリスはまだドイツと戦争状態になっていなかった。ドイツ地中海戦隊も交戦を控えて東にむかい、イギリス巡洋戦艦は西へむかってすれ違う[66]。ところがイギリス巡洋戦艦は反転すると、ドイツ艦隊の追跡を開始した[66]。 このときミルン(イギリス地中海艦隊司令長官)はドイツ艦隊と触したことと、その位置は報告したが東に向かっていることを伝えるのを怠った。そのため、チャーチルはドイツ艦隊がまだフランスの輸送船団の脅威になると思い、ミルンに輸送部隊が攻撃された場合は交戦することを許可した。この時点では、チャーチルらはゲーベンが西へ向かっていると思い込んでおり、その後の指示に影響を及ぼすこととなる。

追跡

イギリス艦から撮られたドイツ艦隊。左側の2本煙突が「ゲーベン」で右側の4本煙突の艦が「ブレスラウ」。

ゲーベンは公試で28.4ノットを発揮したことがある。だが1912年7月の就役直後に地中海に派遣され、それから本格的整備をおこなったことがなかった[59]。とりあえず24ノットを発揮したことろ、イギリス巡洋戦艦2隻はドイツ地中海戦隊に引き離されてしまった[67]。イギリス巡洋戦艦もボイラーに問題を抱えていたのである。ただし、ゲーベンではフル回転でボイラーへの給炭を続けたためボイラー室の船員4人が過労で殉職している(彼らは本戦闘での唯一の犠牲者である)。インドミタブル、インディファティガブルは遅れ、軽巡洋艦ダブリン (HMS Dublin) が接触を続けたが、霧および日没のためシチリア島北岸のサン・ヴィト岬沖でダブリンはドイツ艦隊を見失った。同4日午後、ブレスラウがメッシーナに先行して石炭積み込み準備を開始、8月5日夜明けに到着した[67]。ゲーベンの到着は数時間後だった[67]。またドイツはイギリスと戦争状態になった。

一方、イギリス海軍省はミルンに、イタリアの中立を尊重しイタリアの領海内に侵入しないよう命じた。これはメッシーナ海峡の通過が不可能であることを意味した。そのため、ミルンは海峡の出口に部隊を配置した。未だドイツ地中海戦隊が輸送船団攻撃や大西洋に向かうと予想していたため、ミルンは2隻の巡洋戦艦、インフレクシブルとインディファティガブルを海峡の北に配置し、南側は軽巡洋艦グロスター (HMS Gloucester) 1隻のみであった。その上、ミルンはインドミタブルをチュニジアのビゼルトへ給炭に向かわせた。メッシナ海峡の西側はフランス軍が監視してくれると信じ、ミルン直率の主力艦隊はドイツ艦隊の西進にそなえてシチリア北アフリカ間で待機した[68]

ゲーベンとブレスラウにとって、メッシーナは避難所とはならなかった[67]。イタリアは中立国であることを理由に、スション提督に24時間以内の出港を要求し、石炭の陸上からの補給を拒絶した[67]。ドイツの汽船から石炭が手作業で集められたが、ドイツ艦の舷側に平底船を横付けできなかったので積載作業に手間取った[67]。集まったのは8月6日夕刻までで1500トンであり、コンスタンティノープルに行くのには不十分であった。 スション提督は、メッシーナからの出港支援のためにオーストリア軍艦の出動を駐ウィーンドイツ大使館付武官と軍令部に要請した[69]。だがハンガリー=オーストラリア帝国は「帝国はイギリスと未だ戦争状態に入っておらず、いまだ中立国である」として海軍の協力を拒否した[69]。スション提督は自力でコンスタンティノープルに向かう決心を固め、8月6日午後のメッシナ出港を決めた[69]。 ここで、ティルピッツ提督(軍令部)から「コンスタンティノープル入港は、政治上の理由から目下のところ不可能」という新たなメッセージがさらに届いた[70]。おそらく戦争の終わりまで閉じ込められるであろうがポーラに避難するという選択もあった。だがスションはドイツ艦隊がコンスタンティノープルに入港することの政略的・戦略的意義を考慮し、作戦成功の可能性が低くてもダーダネルス海峡突破の意志を固め、予定どおりのメッシナ出港を下令した[70]

8月6日夕刻、ゲーベンとブレスラウは戦闘を覚悟してメッシーナを出発したが、すぐにドイツ地中海戦隊を見張っていたイギリス巡洋艦と遭遇した[71]。この巡洋艦はグロスターであり、ドイツ艦隊追跡を開始した[72]。ブレスラウはグロスターの針路を妨害し、ゲーベンは電波妨害をおこなって英艦の通信遮断を試みた[73]

グロスターの通報を受けたミルン提督は、イギリス巡洋戦艦をシチリア島周辺に残したまま、マルタから軽巡ダブリンを派遣してトラウブリッジの巡洋艦戦隊に加えた[72]。ミルンはこれでドイツ艦隊を阻止できると考えた。6日深夜から7日早朝にかけて、ダブリンと随伴駆逐艦はドイツ艦隊と接触したが、攻撃しなかった[72]。新たなイギリス艦隊は視界外に去り、グロスターだけが追跡を続けていた[73]

一方、トラウブリッジ戦隊は4隻の装甲巡洋艦、ディフェンスブラック・プリンスウォーリアデューク・オブ・エジンバラからなっていた。 装甲巡洋艦の9.2インチ砲とゲーベンの11インチ砲ではトラウブリッジ戦隊はアウトレンジ攻撃されるため、トラウブリッジは唯一のチャンスは夜明けにゲーベンが彼の部隊の東に位置している時だと考えた。8月7日午前4時、彼はそのような配置に位置することに失敗し、有利な条件で攻撃をかけることが不可能となった。優勢な敵との交戦を避けろというチャーチルのあいまいな命令のため、トラウブリッジは退却した。後日、トラウブリッジは軍法会議で「我々にアドリア海入口の配置を離れる権限はなく、またグロスターを支援せよとの命令も受けていない」と陳述したという[72]

ミルンはグロスターに交戦しないよう命じた。ミルンは未だにスションが西へ向かうと考えていた。だが、グロスターの艦長にとってはゲーベンが逃走しているのは明らかであった。7日正午すぎ、ドイツ地中海戦隊はエーゲ海多島を利用してグロスターへの攻撃を試みた[74]。スション提督はギリシャ沖に石炭船を待機させており[75]、合流するために追跡者を振り切る必要があったためである。一方のグロスターもゲーベンを引き返させようとブレスラウに対し砲火を開き、1発を命中させたが効果はなかった[76]。ブレスラウも反撃して榴弾2発命中を確認したという[76]。最終的にミルンはマタパン岬で追跡を中止するようグロスターに命じた。

8月7日夕刻、イギリス地中海艦隊の巡洋戦艦はマルタで石炭の補給を終え、マタパン岬に向けて出向した[77]。8月8日夜中過ぎ、ミルンは3隻の巡洋戦艦と軽巡洋艦ウェイマスを東に向かわせた。午後2時、海軍省からミルンに、イギリスがオーストリアと戦争になったという誤った情報が届いた[77]。そして、ゲーベン捜索よりアドリア海の警備を選択した。8月9日、ミルンはゲーベンを追跡せよとの明白な命令を受けた[77]。ミルンはこの時点でもスションがダーダネルスを目指しているとは考えておらず、エーゲ海出口の警備を決心した。

8月9日午後、ドイツ地中海戦隊はデヌーサ島沖でドイツ石炭船と合流し、夜を徹してゲーベンとブレスラウに石炭補給をおこなった[78]。8月10日午後5時、彼はダーダネルスに到着、通過の許可を待った。国際信号旗水先案内人を要求したのに対し、オスマン帝国の水雷艇はこれに応じたため彼らに先導されてゲーベンとブレスラウはダーダネルス海峡を通過した[78][注釈 17]。午後8時30分、近くにいたイギリスの副領事から、二隻がダーダネルスを通過したためダーダネルスを封鎖すべき、とイギリスへ打電されたが、ロンドンへは14時間、さらにミルンへは6時間かかってようやく届いたためもはや手遅れだった。翌11日夕方になってようやくウェイマスがダーダネルスに到着し、通過を要求したがトルコ側から拒絶された。

8月10日夕刻、ゲーベンとブレスラウはチャナッカレ沖合に碇泊した[79]。ドイツ帝国とオスマン帝国の間で交渉が行われ、8月16日、ゲーベンとブレスラウはコンスタンティノープルに到着した。正式にオスマン帝国海軍に編入され、ゲーベンはヤウズ・スルタン・セリムに、ブレスラウはミディッリと改名した[79]

その後

1913年7月にオスマン帝国とイギリスは同盟を締結したが、複雑な国際関係により批准されなかった。ロシア帝国はイギリスで建造中のオスマン帝国むけ超弩級戦艦2隻が黒海で重大な脅威になることを怖れ、セルゲイ・サゾーノフロシア外務大臣)がベンケンドルフ駐英大使を通じてイギリスに対応を要請していた[80]コンスタンティノープル協定)。7月危機が世界大戦に拡大した直後の1914年8月2日、オスマン帝国とドイツ帝国間で土獨軍事同盟が結ばれる[5][注釈 8]秘密裏に同盟を締結したオスマン帝国政府に対し、イギリスは完成間近の超弩級戦艦を譲渡するよう要請したが断られ、2隻(レシャディエ、スルタン1世)を接収した[注釈 7][注釈 18]。これによりオスマン帝国内の反英感情が一挙に高まった[81]。 そこにドイツ帝国海軍のゲーベンとブレスラウが到着し、親独感情の高まりと共に親英勢力の発言権が低下する[9]。 ドイツ艦2隻の到着時、オスマン帝国は中立を宣言していたが武装解除も退去要請もせず[45]、両艦はオスマン政府に買い上げられることとなった[注釈 19]。 イギリスはこの措置に強く抗議し、種々の提案をして懐柔を試みる[注釈 20]。 接収したトルコ戦艦の代艦の提供を申し出たがオスマン帝国の姿勢は変わらず[25]、両艦(ゲーベン、ブレスラウ)はオスマン帝国海軍所属となってトルコ国旗を掲げた[79]。さらにオスマン帝国海軍に派遣されていた英海軍将校が追放される[81]。ゲーベンはヤウズ・スルタン・セリム (Yavuz Sultan Selim) [16]、ブレスラウはミディッリ (Midilli) と改名された[82]。乗員はそのままドイツ人であり、ドイツ地中海戦隊司令官のスション提督はオスマン帝国海軍の司令長官に任命され[79]、1917年9月に帰国するまでトルコに留まった[注釈 21]

一方、イギリス地中海艦隊を率いたミルンとトールブリッジ[83]、ディフェンスの艦長フォーセット・レイ(Fawcett Wray)はイギリス国内で公然と非難された。軍法会議で有罪にこそならなかったものの、以後閑職に回されて不遇をかこつ事となった[77]。 なおイギリスにとっても、オスマン帝国が同盟国や中立国であるよりも、敵国として分割対象である方が都合が良かった[9]。イギリスの歴史学者マイケル・ハワードは著書で以下のような見解を示している。

イギリスはこの外交的敗北を嘆くことはなかった。そして、たしかに意図的にそれを自ら招いたのかもしれない。老大国オスマン帝国は従属的な同盟国よりもいけにえとしてイギリスにとってより有益であった。植民庁インド政庁はイギリス帝国にとっての妥当な獲物としてオスマン帝国領小アジアを長いあいだ見ていた。当時、石炭から石油に動力源をシフトしはじめていたイギリス海軍は、ペルシア湾の奥にあるバスラの石油精製施設に注目していた。オスマン帝国が敵になったことで、イギリスは今やエジプトの変則的な占領状態を完全な保護国に変更することができた。ロンドンは自国の新しい同盟国であるロシアに対して、過去一〇〇年のあいだイギリスの安全保障の「砦」と見なされていたコンスタンチノープルの提供を約束する余裕すらあった。マイケル・ハワード『第一次世界大戦 The First World War』72-73ページ

1914年10月下旬、元ドイツ艦2隻(ヤウズ・スルタン・セリム、ミディッリ)は黒海襲撃を行い[注釈 20]開戦の火蓋を切った[30][31]。11月初旬にはイギリスなど連合国もオスマン帝国に宣戦を布告し、中東戦域が形成された[25][84]連合国は、ダーダネルス海峡を突破して制海権を握れば首都コンスタンティノープルが危うくなり、オスマン帝国は簡単に屈服すると考えていた[29][85]ヨーロッパの病人と侮っていたのだが[86]、その見通しはダーダネルス海峡作戦[87]ガリポリ攻防戦で打ち砕かれる[88][89]。ダーダネルス海峡突破作戦を主張していたチャーチル海軍大臣[90][85]、作戦失敗の責任をとらされフィッシャー第一海軍卿と共に辞任に追い込まれた[91][注釈 22]

オスマン帝国海軍所属となった2隻は黒海ロシア帝国海軍イギリス海軍を相手に戦った[16]。ミディッリは1918年1月20日、インブロス島攻撃の際にエーゲ海触雷、沈没した[94]インブロス島沖海戦)。 オスマン帝国はムドロス休戦協定セーヴル条約によって連合国に降伏して分割されたが、不平等条約に反発する国民軍激しい抵抗運動が起きた[95]。幾度かの戦争が起きたあと[注釈 23]トルコ革命の末にオスマン帝国は滅亡した[96]ローザンヌ条約が締結されて列強はアンカラ政府を承認し、ここにトルコ共和国が始まる[97]。イギリス海軍が接収した軍艦の代金を含め、賠償請求問題解決した[注釈 24]。 オスマン帝国海軍はトルコ海軍に再編された。ヤウズもトルコ海軍所属となり、竣工時とほとんど変わらない艦容を維持したまま第二次世界大戦終結後も在籍[16]1971年に売却された[99]

ゲーベンに乗船していたゲオルク・コップ(Georg Kopp)は戦後に回想録「孤独な二隻」を著し、英訳もされている。

脚注

注釈

  1. 今回ノ戰爭中東部地中海方面ニ於ケル作戰ノ梗概[1](中略)戰爭ノ初メニ獨逸ノ地中海艦隊デ御座リマシタ巡洋戰艦「ゲーベン」、巡洋艦「ブレスロウ」ノ二隻カ英佛艦隊ヨリ遁レテ「ダーダネルス」海峡ニ入リマシテ以来聯合與國ノ海軍ニ於キマシテハ地中海ニ於テモ北海方面ト同様敵ノ艦隊ヲ其根據地ニ封鎖スルノ策ヲ立テマシタ(以下略)
  2. ◎世界大戰經過概要一覧表 昭和5年3月[2] 海上作戰 第一期(戰爭發端期)自一九一四年-八月初旬 至一九一五年-一月/海上作戰 主要なる出來事(1)8月4日-8月11日 地中海に於けるゲーベン(Goeben)、ブレスロー(Breslau)に對する作戰 
  3. ブレスラウには、のちに第二次世界大戦ドイツ海軍 (Kriegsmarine) を率いたカール・デーニッツが新米将校として配属された[11](1912年10月1日、乗艦)[13]。役職は通信長であった[14]
  4. 文献によってはドイツ地中海艦隊と表記する[16]
  5. 地中海及び黒海に於ける海戰[17] 開戰當初、獨逸地中海隊に属するゲーベン及びブレスラウの二艦は、ダーダネル海峡に遁入せしが、英佛兩國の抗議嚴しかりし爲め、土耳古政府は購入の名義を以て右の二艦を其の黒海艦隊の中に加へぬ。此の一事は、明かに土耳古が獨逸の同盟關係に在るを證せり。又匈國艦隊は、英佛艦隊の爲めに、アドリヤ海に封鎖せられ、英佛側は、墺匈國の領海たるダルマシヤ海岸諸島間の水道に機械水雷を布設せり。其の後千九百十五年五月下旬に至り、伊國の對墺開戰後、墺匈國艦隊は、アドリヤ海より伊國海岸に出動せしにぞ、伊國艦隊及び英艦二隻は之と交戰して敵の小艦三隻を撃沈せり、其の後墺匈國の潜水艦は、地中海に活動するの形勢ありて、シヽリー島附近に於て、十月六日、希臘の商船を撃沈し、又同月十七日には、佛國汽船一隻を撃沈せり、次ぎに黒海に於ける露國艦隊は、千九百十四年十一月十八日、セバストポール沖に於て、土國が先きに獨逸より購入せりと稱せる巡洋艦ゲーベン及びブレスラウと交戰し、ゲーベンは損傷を受け、火災を起して遁走せり。千九百十五年一月十八日、露艦側は土耳古の商船數隻を撃沈し、更に同廿四日には、飛行機十六臺を載せたる商船數隻を撃沈し、其後又ブルガリヤ沿岸を砲撃せり。されど、此方面に於ては遂に目覺ましき海戰を見ずして終れり。
  6. 開戰時に於ては英獨聯合軍獨墺同盟軍の對抗であつたが、英海軍本部の作戰指導並びにミルン大将の指揮宜しきを得なかつた爲、開戰劈頭先づ劣勢な獨軍地中海戰隊の戰略的勝利を以て終つた[18]。〔註〕當時イタリーの主要兵力は戰艦をタラント(Taranto)に三隻、ナポリ附近のガエタ(Gaeta)に四隻有してゐた。(エレナ級カブール級など)  即ちズーホン(Souchon)提督の率ゐる獨軍地中海戰隊の巡戰ゲーベン(Goeben)及び輕巡ブレスロウ(Breslau)は10日コンスタンチノープル(Constantinople)に到着した、トルコは1856年のパリ―條約を無視してそのダーダネルス(Dardanelles)通過を許したのである。
     始め獨の兩艦は墺領ポーラ(Pola)にあつたが、8月1日ブリンディツシ(Brindisi)に於て載炭し、3日にはメッシナ(Messina)海峡を北方に通過、4日佛領アルゼリア(Algeria)ボナ(Bona)及びフィリップヴィユ(Philippeville)を砲撃、5日メッシナにて再び載炭し、6日1700出港、7日にはギリシアのマレア(Malea)岬を通過し、8日デヌサ(Denusa)島で載炭、10日早朝ダーダネルスに向け出發したのである。
     この間聯合國側に於てサー・バークレー・ミルン(Sir Bekeley Milne)大将の率ゐる巡戰以下の英地中海艦隊は、イタリーの中立を犯すことを本國海軍本部より禁ぜられてゐたので、メッシナ海峡の自由出入を憚り、獨艦が同海峡を通過したにも拘らず英國軍艦は之を通過して追撃することをしなかつた爲、遂に之を逃がすに至つた。又佛陸軍(アルゼリア第19軍團)の佛本國渡洋掩護の必要からも英艦隊は行動を制限されたのである。/ 何れにするも獨兩艦がトルコに浸入したことは大戰終結まで聯合側に極めて不利な影響を及ぼしたのである。佛國艦隊はこの間専心アルゼリア軍團の輸送掩護に任じ、獨艦の追跡には全然援助を與へてゐない。/ 墺軍艦隊はその兵力よりみてイタリーの態度不確實であつたので、アドリア海に留り本國海軍の防禦に専心したから、地中海作戰には殆ど與ふる所はなかつた。/ 1915年1月まで本海洋方面の作戰はこれ以上變化はなかつた。
  7. トルコ戦艦レシャディエは、英戦艦エリン (HMS Erin) になった[23]。トルコ戦艦オスマン・スルタン1世は、英戦艦エジンコート (HMS Agincourt) になった[24]
  8. トルコは已に八月一日に於て、ドイツとの秘密の同盟條約を結び、ロシヤが戰爭に参加せば、相互の間に應援義務の發生すべきを定めたり。同日午後ロシヤが戰爭に加はるに至り、同盟條約の實施條件が備はるに至れり。オースストリヤも亦トルコとの同盟條約に加盟せり。該條約は嚴に秘密に付せられ、トルコの参戰の準備成るの日に至る迄、トルコは中立の維持を装ふべきことと爲せり。』聯合軍側に於て、八月一日のドイツ、トルコ間の秘密同盟條約の成立を確知し得ざりしより、トルコに對して種々の提議を爲し、之をして中立を維持せしめんと計れり。』ヨーロッパ大戰開始の頃、八月三日に於て、イギリス内閣は、國内の造船所に於てトルコ政府の爲めに製造中なりし二隻の軍艦の徴發を行ひ、トルコ政府の憤怒を招けり。ドイツ、イギリス間の開戰あるや、ドイツ軍艦ゲーベン號及びプレスラウ號の二隻がボスフォラス海峡に竄入し、トルコは是等のドイツ軍艦を購入せりと稱し、イギリス政府は、國際法違反の故を以て、之に關して抗議を提出せり。[25](以下略)
  9. 獨逸土耳古を籠絡す[31](中略)故に今次大戰の開始と共に、土耳古に對する獨逸の勢力は一層加はり、地中海よりダーダネルスに遁入せる二隻の獨逸軍艦は却て土耳古の艦隊を指揮するに至り、土帝の大權はコンスタンチノープル駐箚の獨逸大使の手に移れり。されば、獨逸と土耳古の關係は、同盟に非ずして、直ちに属國關係に等しく、土耳古政府は一切獨帝の意を奉戴し、其の臣僚大官らは、人民の膏血を絞りて一身の富を計れり。事情此の如くなれば、今次大戰に際し、英佛露の聯合軍側にては、努めて寛大の處置を爲し、以て土耳古を局外中立の地位に置かんとせしも、何の效もなく、土耳古は、獨逸の形勢不利に陥れる時、突然起つて之に應援する事となれり。即ち其初め、中立を装へる土耳古が、墺匈軍ガリシヤに大敗し、獨墺軍亦波蘭に敗軍せる際、急に起つて獨逸に加勢せる事情より見て、其の獨逸に臣從せるの事實を知るべきなり。
    土耳古が獨墺側に立ちて大戰参加を宣言せるは、開戰後三ヶ月を經過せる十月二十九日なりき。思ふに、土耳古人は、逐年異教徒として白人聯合の排斥を蒙り、歐洲に於ては、僅かに南端關門の一面に足を留むるの窮境に在り。故に獨逸の強力に依賴するに非ざれば、其の存在を保つ事難く、財政亦窮乏せり。依つて今次大戰勃發と共に、獨逸より多額の金錢を受けて其身方となり、千九百十四年十月二十九日、其の軍艦を以てクリミヤ半島を砲撃し、又アゾフ海口及びコーカサス沿岸に於て、露国の商船を撃沈し、之を以て聯合側に對する宣戰の表示となせり。此に於て、コンスタンチノープル駐箚の露國大使は、十月三十一日國旗を捲いて使館を退去し、翌十一月一日、英佛兩國の大使も共に使館を撤して歸國の途に就き、茲に國交斷絶せるなりき。
  10. イギリスは3C政策を掲げ、三国協商英露協商露仏同盟英仏協商)を締結していた[37]。オスマン帝国はイギリスやフランスと対ロシア同盟を結ぼうとしたが、拒否された[38]
  11. イギリスはオスマン帝国領だったエジプトを事実上植民地化していた[39]
  12. イギリス海軍からギャンブル提督(1909年2月~1910年3月)、ウィリアムズ提督(1910年4月~1912年4月)、リムパス提督(1912年5月~1914年9月)が派遣され、オスマン帝国艦隊総司令官に任命されていた。
  13. ○希土兩國ノ軍備現況(大正三年六月十九日附報告)[44](中略) 二、土國海軍 土國海軍ノ製艦計畫ハ希國ノ計畫程ニ大規模ナラサルモ大艦ヲ多ク含ムニ於テ之ニ優レルモノアリ即チ先ツ最大級「ドレットノート」型戰闘艦三隻ヲ算シ内一隻Reshadieh號ハ客年九月進水シテ目下武装中ニ属シ第二ハ即チ伯剌西爾政府ノタメニ英國ニ於テ建造シタル前記「リオ・デジャネロ」號ニシテ客年十二月末ヲ以テ購入目下武装中ニシテ第一ト共ニ本年中ニ竣功スヘシ亦第三ハ近ク英國Vickers會社ニ注文セラルヘシ
    更ニ製艦計畫ハ輕巡洋艦二隻及水雷驅逐艦十八隻ヲ含ミ内驅逐艦十二隻ヲ佛國Normand會社ニ注文シタル外他ハ何レモ英國Armstrong-Vickers「シンジケート」ニ建造契約ヲナセリ現在海軍力ハ戰闘艦五隻 甲装巡洋艦二隻 水雷砲艦二隻 水雷驅逐艦八隻 水雷艇八隻ニシテ詳細ヲ表示スルコト次ノ如シ(以下略)
  14. スウホン提督と表記する資料もある[50]
  15. ブレスラウは1914年1月にトリエステの民間造船所で本格的修理を実施していた[49]
  16. デーニッツも、ゲーベンからブレスラウに戻った[60]
  17. この他、ゲーベンの通信を補助した客船「ゲネラル」、貨物船「ロドスト」なども通過している。
  18. ○英土國交斷絶顚末ニ關スル英國政府白書摘要(大正三年十一月二十一日附報告)[81] 獨佛露ノ開戰ト共ニ英國政府ハ八月三日駐土代理大使ヲシテ土國カ「アームストロンク」會社ニ注文中ナル「オスマン」一世ヲ英國政府ニ引取ルヘキ旨ヲ土國政府ニ申入レシメタルニ土國總理大臣ハ土國カ戰爭ニ加ハラサルニ英國政府カ此ノ如キ行動ニ出タルハ友好的ナラストテ不滿ノ意ヲ表シ且ツ今次ノ戰亂ニ際シ土國ハ嚴正中立ヲ守ルヘク動員實行ノコトニ決定シタルトモ右ハ其完成ニ數箇月ノ時日ヲ要シ将來萬一ノ場合ニ備フルノ必要已ヲ得サルニ出タルモノナルコト並ニ獨逸軍事顧問ノ在任ハ何等政治上ノ意味ナキモノナルコトヲ明言セリ 英國政府ハ土國軍艦ノ引取ニ對シテハ不本意トスル所ナルモ右ハ此際ノ危機ニ際シ英國ニ在ル使用シ得ヘキ軍艦ヲ保有スルノ必要ニ迫ラレタルニ因ルモノニシテ土國カ受クル金錢上其他一切ノ損害ニ對シテハ英政府ニ於テ十分ノ考量ヲ加フヘキ旨ヲ土國政府ニ申入レタルカ土國人民ノ敵愾心ハ本件ノ爲メ頗ル熾盛トナレリ(以下略)
  19. (中略)[81] 八月十一日獨國軍艦「ゲーベン」「ブレスラウ」ガ「ダーダネルス」ニ入ルヤ英國政府ハ直ニ土國政府ニ對シ獨國軍艦ヲシテ海峡ヲ通過セシメサルヘキコト、二十四時間内ニ立去ルカ然ラサレハ武装ヲ解除セシムヘキコトヲ申入ルヘキ旨ヲ駐土代理大使ニ訓令シタルニ之ト行違ニ土國政府ハ英國政府ニ對シ前記二艦ヲ買入タルコト其乗組員ハ總テ獨逸本國ニ歸還セシムヘキコト並ニ右二艦ノ購買ハ英國注文中ノ軍艦ニ代ハルモノニシテ多島海問題ニ關シ希臘ト折衝上互角ノ地歩ヲ占ムルノ必要ニ出テ敢テ露國ニ對抗スルノ考ニ出テタルニ非ル旨ヲ申入レタリ 而シテ土國海軍大臣ハ英國海軍顧問「アドミラル、リムパス」ニ右二艦ノ艤装方ヲ依頼シ且之ヲ同提督ノ麾下ニ置クヘキ旨ヲ約束シタルニ拘ラス數日ヲ出テスシテ同提督以下英國海軍将校ノ轉職ヲ命シ土國将校ヲ以シ之ニ代ヘ之レカ説明トシテ八月十六日總理大臣ハ英國代理大使ニ對シ土國ハ中立ヲ嚴守スヘク且「ゲーベン」「ブレスラウ」ハ土國将校ニ於テ之カ操縦ニ不便ヲ感スルヨリ若干獨逸将校ヲ乗組マシメ置クノ必要アリ英國提督ノ下ニ土獨兩國ノ将校ヲ置クハ不便ナルヲ以テ餘儀ナク提督以下ノ轉職ヲ見ルニ至リタル次第ナリト辯解セリ(以下略)
  20. 是等の事件ありたるに拘はらず、聯合諸國はトルコ政府に對して種々の提議を爲せり。聯合諸國は先づ、トルコにして中立を維持し、エジプトが平穏なるときは、エジプトの政治上の地位を變更せざるべきをトルコ政府に説き、次に、若しトルコが中立を嚴守せば、協商側の諸國が總ての攻撃に對してトルコの獨立及び領土保全を指示すべきを説けり。トルコ海軍大臣が領事裁判制度の即時の撤廢を求むるや、イギリス外務大臣は、フランス及びロシヤの承諾することを條件として、現代の状態に適する制度がトルコに行はるるに至る際、イギリスが領事裁判制度に關する其権利を抛棄すべきを約せり。イギリス王も親書をトルコ帝に贈り、曩にイギリスに於てトルコの爲に製造中なりし二隻の軍艦を、止むを得ずして徴發せることにつき、遺憾の情を表し、戰爭終らば之を囘復すべきを約せり。 トルコ帝及びトルコ宰相は、外觀上、聯合諸國に對して慇懃の禮節を失はざりしも、トルコのの態度は已に決し、陸軍大臣エンヴェル「パシャ」は戰備を整ふるの件に當り、トルコ軍隊の動員が行はれたり。八月二十六日ドイツ海軍軍人が陸路トルコの首都に着せり。トルコの戰備成るや、十月二十八日、ゲーベン號の艦長は、ドイツ船及びトルコ船を率ゐて黒海に入り、セバストポル近海に水雷を浮流せしめ、オデッサ及び其他二港に砲撃を加へたり。是に於てロシヤは十月三十一日トルコに對して宣戰し、十一月三日イギリス及びフランスもトルコに對して宣戰するに至れり。ドイツ帝はトルコ帝をして、普く囘々教徒に激して、神聖戰爭を宣言せしめ、以てインド、エジプトに於てイギリスを苦め、アルゼリヤ、チェニス、モロッコに於てフランスを苦めんと欲せり。然れども囘々教徒は、ドイツ帝の豫期の如く、トルコ帝の檄に應じて起つに至らざりしなり。[25](以下略)
  21. 後任の地中海戦隊司令官はパシュウィツ提督であった。
  22. イギリスの思惑は軌道修正され、サイクス・ピコ協定[92]メソポタミア委任パレスチナ委任バルフォア宣言イギリス委任統治領パレスチナ)などで具体化した。この外交によりもたらされた混乱は、現在も続いている[93]
  23. アルメニア・トルコ戦争フランス・トルコ戦争ギリシャ・トルコ戦争など。
  24. 對土協約議定書の調印[98](中略)次ぎに、賠償問題に就いては、土耳古が獨墺兩國の中央銀行に寄託せる五百萬土耳古磅の金貨と、土耳古が英國に注文せる軍艦手附金五百英磅の金貨とを聯合國に提供し、之にて土國と聯合國間の一切の損害を相殺する事に一旦協定せるを、其の後、英國は、内政上の理由により、右の手附金を聯合國間に分配しがたき事となりし爲め、其の代りとして、軍艦購入資金として英國にて募集せる土耳古の國際證券九十三萬土耳古磅に相當する額の提供を申出て、依つて、更に聯合國間の意見纏まり次第、賠償分配協約が聯合國間に調印せらるべき決せり。其他經濟篇、交通篇等も、別段の難問題なく解決せられたり。(以下略)

出典

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  • 編集人 木津徹、発行人 石渡長門『世界の艦船 2010.No.718 近代巡洋艦史』株式会社海人社〈2010年1月号増刊(通算第718号)〉、2009年12月。
  • 太平洋戦争研究会、岡田幸和、谷井建三(イラストレーション)『ビッグマンスペシャル 世界の戦艦 〔 大艦巨砲編 〕 THE BATTLESHIPS OF WORLD WAR II世界文化社、1998年11月。ISBN 4-418-98140-3。
  • 太平洋戦争研究会、岡田幸和、瀬名堯彦、谷井建三(イラストレーション)『ビッグマンスペシャル 世界の戦艦 〔 弩級戦艦編 〕 BATTLESHIPS OF DREADNOUGHTS AGE世界文化社、1999年3月。ISBN 4-418-99101-8。
  • カール・デーニッツ『ドイツ海軍魂 デーニッツ元帥自伝』山中静三 訳、原書房、1981年12月。ISBN 4-562-01191-2。
    • 第三章 一九一二~一四年 巡洋艦「ブレスラウ」/第四章 1914年大戦勃発/第五章 「ブレスラウ」がトルコ艦「ミディリ」となる
  • マイケル・ハワード『第一次世界大戦』馬場優、法政大学出版部、2014年9月。ISBN 978-4-588-36607-9。
  • リチャード・ハンブル「1 第一次大戦のドイツ艦隊」『壮烈!ドイツ艦隊 悲劇の戦艦「ビスマルク」』実松譲 訳、サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫(26)〉、1985年12月。ISBN 4-383-02445-9。
  • ジャン=ジャック・ベッケール、ゲルト・クルマイヒ『仏独共通通史 第一次世界大戦(上)』剣持久木、西山暁義 訳、岩波書店、2012年3月。ISBN 978-4-00-023796-3。
  • ジャン=ジャック・ベッケール、ゲルト・クルマイヒ『仏独共通通史 第一次世界大戦(下)』剣持久木、西山暁義 訳、岩波書店、2012年3月。ISBN 978-4-00-023797-0。
  • 月間雑誌「丸」編集部編『丸季刊 全特集 写真集 世界の戦艦 仏伊ソ、ほか10ヶ国の戦艦のすべて THE MARU GRAPHIC SUMMER 1977』株式会社潮書房〈丸 Graphic・Quarterly 第29号〉、1977年7月。
  • ジャン・モリス『帝国の落日〔上巻〕 パックス・ブリタニカ完結篇』椋田直子 翻訳、株式会社講談社、2010年9月(原著1978年)。ISBN 978-4-06-215247-1。
  • アジア歴史資料センター(公式)
    • 『外事彙報 大正3年度(政-85)(外務省外交史料館)第四号/○希土両国間ノ葛藤』。Ref.B02130343500。
    • 『外事彙報 大正3年度(政-85)(外務省外交史料館)第四号/○希土両国間ノ軍備現況』。Ref.B02130343600。
    • 『外事彙報 大正4年度(政-86)(外務省外交史料館)第一号/○英土国交断絶顛末ニ関スル英国政府白書摘要』。Ref.B02130352100。
    • 『各国ヨリ帝国艦艇譲受方申出関係雑件(5-1-8-0-31)(外務省外交史料館)3.土国』。Ref.B07090410500。
    • 『「本戦争中東部地中海方面ニ於ケル作戦ノ梗概(御前講演六月二十七日)海軍中佐 森田登」、奏聞及御前講演 巻3大正8年3月31日~14年9月24日(防衛省防衛研究所)』。Ref.C11081068700。

関連項目

外部リンク

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