ル・グラン・マカーブル
『ル・グラン・マカーブル』(Le Grand Macabre)は、ジェルジ・リゲティが1975年から1977年にかけて作曲した全2幕4場からなるドイツ語(または英語)のオペラ。リゲティが書いた唯一のオペラであり、終末を扱ったグロテスクな作品だがファルス的でもある。
作曲の経緯
1965年にスウェーデン王立歌劇場のヨーラン・イェンテレ (Göran Gentele) からオペラの作曲を提案されたリゲティは、はじめ『キルヴィリア (Kylwiria)』という作品を計画した。これは彼の少年時代の夢想をもとにした幻想的な劇で、『アヴァンチュール』に似た作品になる予定だったが放棄された[2]。ついで1969年にオイディプス王にもとづく劇を計画し、イェンテレと協力してリブレットは完成したものの1972年にイェンテレが自動車事故で死亡したために中断された[2]。
1972年、ストックホルム人形劇場 (sv:Marionetteatern) の舞台美術家であるアリウテ・メチース (de:Aliute Mecys) の提案によって、リゲティはミシェル・ド・ゲルドロードの1934年の戯曲『グラン・マカーブルのバラード』 (fr:La Balade du Grand Macabre) を原作とするオペラを書くことになった[2]。
しかしリゲティはゲルドロードの原作に満足できず[3]、リゲティ本人と人形劇場の演出家ミカエル・メシュケ (sv:Michael Meschke) によって書かれたリブレットは、原作を自由に翻案したものである[4]。登場人物の名前が変えられているだけでなく、内容面でも変更されている[3]。原作ではネクロツァールに相当する人物は単なる詐欺師であることが判明するが、リゲティはその点をわざと曖昧にしている[5]。
『ル・グラン・マカーブル』は死を主題とする作品である点で1965年の『レクイエム』と共通する[6]。リゲティは本作品のコミカルな部分と恐怖の部分は「同じ硬貨の表と裏」にあたると考えていた[7]。
1978年4月12日、ストックホルムのスウェーデン王立歌劇場で初演された。指揮はエルガー・ハワース、演出はメシュケ、舞台装置と衣装はメチースによる[4]。それ以降、『ル・グラン・マカーブル』はジョン・アダムズのものと並んで現代のオペラでもっとも成功した作品となっている[7]。
後にザルツブルク音楽祭のために大幅に改訂された。改訂版は1997年7月28日にザルツブルク祝祭大劇場でエサ=ペッカ・サロネン指揮のフィルハーモニア管弦楽団とウィーン国立歌劇場合唱団によって初演された。演出はピーター・セラーズにより、英語で歌われた[4][8]。セラーズの演出はチェルノブイリ原子力発電所事故を扱っているが、この演出では元々のオペラの持つ曖昧さが失われるとリゲティは言っている[9]。
音楽
リゲティは『ル・グラン・マカーブル』を「アンチ・アンチ・オペラ」と呼んでいる。マウリシオ・カーゲルの『国立劇場』(1970)という、オペラを解体した前衛的でナンセンスな音楽劇(アンチ・オペラ)に接したリゲティは、それをさらに否定して、伝統的なオペラの価値を肯定しつつそれに新しい装いを与えたものをアンチ・アンチ・オペラと呼んだ[13]。
『ル・グラン・マカーブル』ではバロック音楽、オペラ・ブッファ、ワーグナー、ベルク『ヴォツェック』、民族音楽、ポピュラー音楽まで、さまざまな音楽や様式が借用・パロディ化されている[14]。各場の前奏曲・間奏曲はバロック時代のトッカータに由来するが、車のクラクションや呼び鈴、メトロノーム、目覚まし時計、サイレンなどを使用することでシュルレアリスム的な効果を出している[15]。第1場のネクロツァールによる人類滅亡の宣告は、グルック『アルチェステ』の託宣者をなぞっている[16]。第3場のゲポポのヒステリックなアリアは極端な音域を使用し、『ランメルモールのルチア』の狂乱の場のような音楽を下敷きにしているが、その一方でバルカン半島の民族音楽に見られるアクサクのリズムを使用している[17]。第3場のネクロツァールの登場場面にはアイヴズ風の極端なコラージュが見られ、ベートーヴェンの交響曲第3番終楽章の冒頭を旋律だけ十二音音楽にしたものを基礎として、その上にヴァイオリンがラグタイム、ファゴットがビザンティン聖歌、小クラリネットがサンバ、ドラムが行進曲を演奏する[16][18]。
リゲティの演劇的作品は1958年の『アルティクラツィオーン』(電子音楽による会話の模倣)にはじまり、1962年の『アヴァンチュール』、1965年の『新アヴァンチュール』(いずれも歌詞は無意味な音による)がある。『ル・グラン・マカーブル』はその延長線上にあり[19]、無意味な音を羅列した箇所も多いが、基本的に歌詞は具体的な意味を持っている。
リゲティは1960年代にトーン・クラスターを使った、旋律らしき旋律が認識できない音楽で有名になった。『ル・グラン・マカーブル』にも従来の技法は使われており、第3場では自作の『室内協奏曲』を引用してさえいるが[20]、それらは劇的な効果を高めるために使われ、基本的に旋律ははっきり聞こえる。
編成
独唱者のほかに混声合唱と、舞台裏で歌う女声合唱を使用する[4]。
フルート3(2番と3番はピッコロ持ちかえ)、オーボエ3(2番はオーボエ・ダモーレ、3番はコーラングレ持ちかえ)、クラリネット3(2番は小クラリネットとアルトサクソフォーン持ちかえ、3番はバスクラリネット持ちかえ)、ファゴット3(3番はコントラファゴット持ちかえ)、ホルン4、C管トランペット4(1番と2番はオプションでD管ピッコロトランペット持ちかえ)、バストランペット、トロンボーン3(テナー、バス、コントラバス)、チューバ、打楽器4、クロマティック・ハーモニカ3、マンドリン、チェレスタ(およびチェンバロ)、ピアノ(グランドピアノと電子ピアノ)、電子オルガン、弦楽器(ヴァイオリン3、ヴィオラ2、チェロ6、コントラバス4)[4]。
打楽器奏者は通常の楽器のほかにウィンドマシーン、スライドホイッスル、クラクション、警笛、ピストル、サイレン、呼び鈴、メトロノーム、目覚まし時計、アヒルのおもちゃ、新聞紙、皿、鍋を含むさまざまなものを演奏する。
登場人物
- ネクロツァール(バリトン)- 墓から蘇った死神、吸血鬼。人類の滅亡(グラン・マカーブル)を宣告する。
- 大酒呑みのピート(ハイ・テノール)
- アマンダ(ソプラノ)、アマンド(メゾソプラノ)[注 1] - 恋人たち。
- アストラダモルス(バス)- 女装趣味の宮廷占星術師。
- メスカリーナ(メゾソプラノ)- アストラダモルスの妻でSMの女王様。
- ヴィーナス(ハイ・ソプラノ)- 女神。
- ゴーゴー公(ボーイソプラノ、ソプラノ、またはカウンターテノール)- ブリューゲルランドの君主で少年。
- 白大臣(テノール)、黒大臣(バリトン)- ブリューゲルランドの実権を握っている大臣たち。
- ゲポポ(ソプラノ)[注 2]- 秘密警察長官。
- ルフィアック(バリトン)、ショビアック(バリトン)、シャーバナック(バリトン)
あらすじ
架空の国であるブリューゲルランドを舞台とする。
第1幕
第1場: 12個のクラクションによる前奏曲にはじまる。クラクションは打楽器奏者によって手と足を使って演奏される。大酒呑みのピートが酒を飲みながら「怒りの日」を歌い、アマンダとアマンドが愛の歌を歌っている。ネクロツァールは墓の中からよみがえり、今晩人類が滅びると宣告する。ネクロツァールはピートを自分の手下として働かせ、死神の道具を身につけ、ピートを馬にして町へ向かう。一方アマンダとアマンドはネクロツァールが出てきた墓穴の中で愛の行為を始める。
第2場: クラクションによる間奏曲にはじまる。宮廷占星術師のアストラダモルスが妻のメスカリーナに虐待されている。翌朝、彼は望遠鏡をのぞき、彗星の衝突によって世界が破滅することを知る。そこへネクロツァールがピートを連れてやって来る。一方泥酔して眠るメスカリーナは夢の中で女神ヴィーナスに会い、理想の男を与えてくれるように頼む(五重唱)。ネクロツァールはメスカリーナの首に噛みついて殺し、アストラダモルスは虐待から解放されたことを喜ぶ。
第2幕
第3場: 6個の呼び鈴による前奏曲についで白大臣と黒大臣が罵りあう(A, B, C……ではじまる罵り言葉を順に並べる)。ブリューゲルランドの君主であるゴーゴー公はまだ若く、実権を大臣に握られている。ふたりの大臣は増税と退位をゴーゴー公に要求する。そこへ秘密警察長官のゲポポが鳥の姿でやってきて、彗星の接近を見た民衆が反乱を起こしたことを告げる。サイレンが鳴り、ネクロツァールが骸骨の手下を連れて宮廷に出現する(コラージュ)。彼は最後の審判を開始しようとするが、血の聖杯と称してワインを大量に飲み干したため、泥酔して死神の道具をなくしてしまう。彗星が衝突し、人々は気絶する。
第4場(エピローグ): 空想上の最後の審判を表す長い間奏曲にはじまる。目覚めたピートとアストラダモルスは自分がすでに死んだと思うが、ゴーゴー公は彼らがまだ生きていることを教える。ネクロツァールは人類を滅ぼし損ねたことに失望し、ふたたび墓に戻ろうとするが、死んだはずのメスカリーナが飛びだしてきてネクロツァールを自分の夫と認める。しかし太陽が昇るとネクロツァールは塵になって消える(弦楽器による鏡像カノン)。墓の中で情事にふけっていたアマンダとアマンドは今までに起きたことに何も気づいていなかった(終曲のパッサカリア)。
演奏会用編曲
初演の指揮者であるエルガー・ハワースは1988年に第3場のゲポポの3つのアリアを抜粋してソプラノまたはC管トランペットとピアノのための『マカーブルの秘密』(Mysteries of the Macabre)という題の演奏会用歌曲にした。後に室内オーケストラ伴奏版やオーケストラ伴奏版も編曲されている[11]。
脚注
出典
- Marx 2011, p. 80.
- Gruodytė 2018, p. 3.
- Gruodytė 2018, p. 7.
- Le Grand Macabre, Schott Music Group
- Marx 2011, p. 78.
- Marx 2011, p. 71.
- Marx 2011, p. 77.
- György Ligeti Le Grand Macabre, Salzburg Festival
- Everett 2009, p. 29.
- 『ル・グラン・マカーブル』昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター 。
- 『《ル・グラン・マカーブル》日本初演』ショット・ミュージック、2009年1月27日 。
- 『リゲティの時代がきた! メジャーへ躍り出た孤高の作曲家』NIKKEI Style、2013年2月16日 。
- Edwards 2016, p. 2.
- Everett 2009, pp. 34–51.
- Everett 2009, pp. 37–38.
- Everett 2009, p. 43.
- Everett 2009, pp. 38–40.
- Marx 2011, pp. 78–80.
- Gruodytė 2018, pp. 5–6.
- Everett 2009, p. 53.
- Everett 2009, p. 28.
- Gruodytė 2018, p. 8.
参考文献
- Edwards, Peter (2016). György Ligeti's Le Grand Macabre: Postmodernism, Musico-Dramatic Form and the Grotesque. Routledge. ISBN 9781315531274
- Everett, Yayoi Uno (2009). “Signification of Parody and the Grotesque in György Ligeti's Le Grand Macabre”. Music Theory Spectrum 31 (1): 26-56. doi:10.1525/mts.2009.31.1.26.
- Gruodytė, Vita (2018). “Le Grand Macabre at the Crossroads of two exiles”. TheMA 7 (1-2): 1-11 .
- Marx, Wolfgang (2011). ““Make Room for the Grand Macabre!” The Concept of Death in György Ligeti’s Œuvre”. In Louise Duchesneau & Wolfgang Marx. György Ligeti: Of Foreign Lands and Strange Sounds. The Boydell Press. pp. 71-84. ISBN 9781843835509