ウェーク (砲艦)

ウェーク(USS Wake, PR-3)はアメリカ海軍河用砲艦。就役時の艦名はグアム(Guam, PG-43)であった。

「多多良」
艦歴
発注: 江南造船所
起工: 1927年
進水: 1927年5月28日
就役: 1927年12月28日
退役:
その後: 1941年12月8日に日本海軍により捕獲
1945年9月国府軍により接収[1]
1946年に中華民国に移管
1949年4月23日に人民解放軍に投降後、4月30日に中華民国空軍の爆撃により撃沈
除籍: 1942年3月25日
性能諸元
排水量: 常備:350トン
全長: 159 ft 5 in (48.59 m
全幅: 27 ft 1 in (8.25 m)
吃水: 5 ft 3 in (1.6 m)
機関: ソーニクロフト式重油専焼水管缶2基[1]、直立三段膨張式レシプロ機関2基、2軸推進
最大出力: 950hp×2
最大速力: 14.5 ノット
乗員: アメリカ艦時 70名[1]
日本海軍編入時 定員56名[2]
兵装: 3インチ:7.62cm(50口径)単装速射砲2基2門
ルイス式7.7mm(30口径)単装機銃8基
13ミリ連装機銃2基

艦歴

アメリカ海軍時代

「グアム」は1927年5月28日に上海の江南造船所で進水し、同年12月28日に就役した。1928年には、ハルナンバーが PG-43 から PR-3に変更された。「グアム」や後に就役した「パナイ」など、アメリカ海軍の河用砲艦の第一の任務は自国民の宣教師およびその他外国人の保護であり、次いで日本の動向を探る「スパイ船」「浮かぶ無電所[3]」としての役割であった。就役後一貫して所謂「揚子江パトロール」の任務に就いていた「グアム」だったが、1937年に日中戦争が勃発すると日本の脅威をまともに受けることとなった。1939年までには、「グアム」がどのような行動をとっても、日本の艦艇による「護衛」がつけられることとなった。

1941年1月、「グアム」は新造の大型巡洋艦にその名を譲って、「ウェーク」と改名された。11月25日、「ウェーク」は漢口の海軍基地の閉鎖を命じられ、上海へ向かった。この頃、上海には支那方面艦隊古賀峯一中将)の旗艦である巡洋艦「出雲」が、上海に残っていた「ウェーク」およびイギリス砲艦「ペテレル (HMS Peterel)」と相対するような形で停泊しており、古賀中将はさらに駆逐艦」と砲艦「鳥羽」を呼び寄せ、外灘内の公園に海軍陸戦隊の15センチ砲を据えてウェークとペテレルを包囲する形とした[4]。10月28日には、長江を航行する船の船長などを務めていた経験のあるコロンブス・ダーウィン・スミス(Columbus Darwin Smith)が少佐として艦長に任命された[5]。この時期、定員55人であった「ウェーク」の乗員は14人に減らされていた[5]

1941年12月8日、真珠湾攻撃によって日本はアメリカとの間に開戦した。その前日、スミス艦長のもとに日本の士官から「艦長と乗員のために七面鳥を渡したい」との申し出があった。この申し出には、「翌朝、艦長はどこにいるか」という問いかけもついていた。古賀中将は「ウェーク」と「ペテレル」を無傷で拿捕する腹積もりで、事前にあらゆる工作を以って二砲艦を上海に釘付けにしていたのである[4]。8日未明、スミス艦長は真珠湾攻撃に関する情報を補給士官から受け取って「ウェーク」に急行した。その前後に、出雲から「ウェーク」と「ペテレル」に降伏勧告のための軍使(「ウェーク」へは支那方面艦隊参謀松本作次少佐[6])が派遣され、「出雲」、「蓮」、「鳥羽」の三艦は「ウェーク」と「ペテレル」が歯向かえば即座に撃沈できるよう、あらかじめ砲の照準を「ウェーク」と「ペテレル」に定めていた[4]。スミス艦長は圧倒的な日本軍に取り囲まれては多勢に無勢と感じ、乗員による自沈の試みも成功しなかったため、ついに「ウェーク」は白旗を掲げて降伏。朝日新聞は「(降伏)勧告文を見ただけでスミス艦長はあへなく降伏した」と伝えた[7]。「ウェーク」は第二次世界大戦で唯一降伏したアメリカ海軍の艦船となった。他方、「ペテレル」は艦長が降伏を拒絶したため、「出雲」、「蓮」、「鳥羽」などの砲撃で呆気なく撃沈された[8]。「ウェーク」は1942年3月25日に除籍された。スミスは捕虜収容所に収容されたが、後にほか2名とともに脱出した[9]

2011年現在、砲艦の「ウェーク」以降に就役したアメリカ海軍の艦艇に、カサブランカ級航空母艦ウェーク・アイランド」を別にすると「ウェーク」と命名された艦艇は存在しない。

多多良(多々良)

「ウェーク」の拿捕は、12月8日午後1時の大本営発表で真珠湾攻撃の成功に続いて発表された。

ニ、帝国海軍は本八日未明上海に於て英砲艦「ペトレル」を撃沈せり、米砲艦「ウェーキ」は同時刻我に降伏せり大本営海軍部発表 昭和16年12月8日午後1時

「ウェーク」は1941年12月15日に日本海軍籍へ編入。「多多良 (タタラ)」[10]と命名され、同日付で支那方面艦隊上海根拠地隊に編入された。佐世保鎮守府籍[11]

1942年1月26日に江南造船所での艦内修理改造完了。備砲は後に日本軍の8センチ砲に交換、機銃はそのまま使用されたと言われている。大戦前半は主に上海、天生などに、後半は南京安慶九江などに警泊することが多くなった。1944年10月10日、「多多良」は「鳴海」とともに第二十四砲艦隊を編成し、その旗艦となった[12]。この頃にはP-51などの襲撃を受けることも多くなっていったが、「多多良」と「鳴海」は空襲のたびに対空砲火の他に阻塞を揚げてこれに対抗した[13]。1945年1月1日から2月3日まで江南造船所で修理を行った後[13]、再び九江方面で行動。しかし、戦況悪化により砲艦隊にも被害が続出したので、全ての砲艦は上海に回航される事となった。「多多良」は「鳴海」とともに蕪湖で13ミリ連装機銃2基を陸揚げし[14]、無武装状態で上海に係留されたまま、無傷で終戦を迎えた。9月30日に日本海軍籍を除籍。

太原

終戦後は中華民国軍が接収し、艦名を「太原」と改名。国共内戦再発後、1949年4月23日に中国人民解放軍海軍に投降し、4月30日、南京・燕子磯にて中華民国空軍の爆撃により撃沈された。

多多良艦長

(注)1944年10月1日以降は「砲艦長」。

  1. 安村対一 少佐:1941年12月15日[15] - 1943年2月1日[16]
  2. 赤木敏郎 少佐:1943年2月1日[16] - 1944年10月10日[17]
  3. (兼)赤木敏郎 少佐/中佐:1944年10月10日[17] - 1945年8月15日[18] (本職:第二十四砲艦隊司令)

脚注

注釈

  1. この数字は特修兵を含まない。
  2. 本当に勧告文を見た「だけ」で降伏したかどうかは不明。

出典

  1. 世界の艦船 『日本海軍特務艦船史』、p. 103。
  2. 海軍定員令 昭和16年12月15日付 内令第1663号改正分 「第70表 砲艦定員表 其5」[注釈 1]
  3. 片桐, 243ページ
  4. 木俣, 251ページ
  5. 『長江パトロール』、p.415
  6. 戦史叢書第79巻 中国方面海軍作戦<2>昭和十三年四月以降、325ページ
  7. 昭和16年12月9日 朝日新聞夕刊(8日発行)[注釈 2]
  8. 木俣, 252ページ
  9. 『長江パトロール』、p.418
  10. 昭和16年12月15日付 達第387号 アジア歴史資料センター Ref.C12070113600 
  11. 昭和16年12月15日付 内令第1662号 アジア歴史資料センター Ref.C12070154700 
  12. 田村, 132ページ
  13. 田村, 134ページ
  14. 田村, 135ページ
  15. 昭和16年12月15日付 海軍辞令公報 (部内限) 第771号 アジア歴史資料センター Ref.C13072083400 
  16. 昭和18年2月1日付 海軍辞令公報(部内限)第1046号 アジア歴史資料センター Ref.C13072089600 
  17. 昭和19年10月14日付 秘海軍辞令公報 甲 第1619号 アジア歴史資料センター Ref.C13072101500 
  18. 昭和20年8月27日付 秘海軍辞令公報 甲 第1897号 アジア歴史資料センター Ref.C13072107000 

参考文献

  • 朝日新聞:昭和16年12月9日夕刊(8日発行)
  • 支那方面艦隊司令部『自昭和十七年一月一日至昭和十七年一月三十一日 支那方面艦隊司令部戦時日誌』(昭和16年12月1日~昭和19年5月31日 支那方面艦隊戦時日誌(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030035300
  • 『戦利船利用予定表』(戦利船利用予定表) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08050117800
  • 第二十四砲艦隊『自昭和十九年十一月一日至昭和十九年十一月三十日 第二十四砲艦隊戦時日誌』(第24砲艦隊戦時日誌) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030201700
  • 砲艦多多良『昭和二十年八月三十一日現在 現有品目録』(現有品目録 砲艦多々良) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08010875100
  • 木俣滋郎「緒戦時の知られざる海戦」『丸・別冊 太平洋戦争証言シリーズ(8) 戦勝の日々 緒戦の陸海戦記』潮書房、1988年
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦9 軽巡II』光人社、1990年、ISBN 4-7698-0459-8
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝 全八六〇余隻の栄光と悲劇』光人社、1993年、ISBN 4-7698-0386-9
  • 世界の艦船 増刊第47集 『日本海軍特務艦船史』海人社、1997年3月号増刊
  • 田村俊夫「元イタリア河用砲艦だった「鳴海」の生涯を徹底調査でたどる」『歴史群像太平洋戦史シリーズ51 帝国海軍 真実の艦艇史2』学習研究社、2005年、ISBN 4-05-604083-4
  • ケンプ・トリー、『長江パトロール 中国におけるアメリカ海軍』、長野洋子 訳、出版共同社、1988年、ISBN 4-87970-048-7
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第79巻 中国方面海軍作戦<2>昭和十三年四月以降』朝雲新聞社

関連項目

外部リンク

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